[p.0001][p.0002]
陰陽道は、支那より三韓お経て伝来せしものにして、朝廷には夙に陰陽寮お置きて其法お採用せり、大宝の制、陰陽寮には頭、助、允、属の外に、陰陽師、陰陽博士等の職員お置きて、其業お分担せしめ、又大宰府及び諸国衙にも陰陽師お置きて、卜筮占星漏刻等の事お掌らしめたり、此術は当時に在りては極めて必用なるものにして、賀茂保憲、安倍晴明の如き、其他斯道の名人も亦歴世乏しからず、中世以降、晴明の後裔土御門家は、代々斯道の長として、陰陽頭に任ぜられ、又陰陽博士となり、殆ど他氏お交へず、而して徳川幕府に及びて、更に諸国の陰陽師お管轄せしめ、之お以て業とするものは、皆同家の免許お受けしめたり、凡て陰陽の道たる、陰陽五行の説に本づき、日月支干の運お考へ、相生相刻の理お推し、吉凶お定め、趣避お弁ずるものにして、方位に忌あり、日時に忌あり、一身の忌あり、衆人の忌あり、一事の忌あり、諸事の忌あり、鬼門、金神、歳徳、天一の如き、一として拘忌にあらざるはなく、冠婚喪祭の大より、洗髪剪爪の末に至るまで、皆之に由らんことお要せしなり、而して之お祈り、之お禳ふに、祭お行ふことあり、泰山府君祭、雷公祭、属星祭の如き是なり、又符呪あり、之お門に占し、之お身に蔵めて、転厄に備ふ、又禁厭あり、即ちまじなひなり、呪詛はのろひと雲ひ、うけひと雲ひて、禁厭お以て人お患苦に陥らしむるものなり、反閉の如きも、禁厭の一にして、亦災害お避くる法なり、多くは之お出行の際に用いたり、而して身固は其略法なりと雲ふ、陰陽道の行ふ所は広し、卜筮、天文、暦学、漏刻の如きも、往時は之に属したれど、今は別に其篇お立てヽ之お挙げたり、又此道は神祇部の祓禊、宗教部の修法と相混ずるものあれば、互に参看すべし、而して陰陽道に非ざるも、其の法の相似たるものは、便お逐ひて此に収めたるもの多し、