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明徳記

軍は廿七日〈○明徳二年十二月〉と定たりといへども、河内国の守護代遊佐河内守国長、十七所に城墎お構へ、国々和泉紀伊国の軍勢通路難儀にして、八幡の勢ぞろへはさかりければ、合戦已に延引して、正月二日と定めたりし事なれば、其用意ありける処に、峯の堂八幡の勢共、ぬけ〳〵に落、夜々に勢すくと沙汰せしかば、年内と明春と、いづれか合戦に利潤有べきとて、召具せられたりける陰陽の博士に占なはせられけるに、博士占形お開き、心静に合戦の吉凶お勘て雲、奥州は〈○山名氏清〉水性、当気は則冬也、去れば水は王にして、年内御合戦あらば、治定の御勝とぞ勘申ける、奥州、此事お聞給、誠に快げにて、さらば諸方の責口へ、晦日の合戦と相触よとて定られたりけるに、此陰陽の博士、小林に向ひ、内々詫事申けるは、合戦の吉凶の事仰下され候に依り、勘文の趣おば、大概に申上つれども、夫占と者、推条お以本意とせり、奥州、水性にて御渡り候間、冬は王にして、御合戦利有べき事はさる事にて侍れども、十二月は冬のしゆの位にて、季は春に近し、又水は北より南へ流るヽは、陽の道にて順也、南より北へ流るヽは、陰の道にて逆也、されば御本意お達せられん事堅かるべし、哀此辺に御陣お召れて、敵の下向お御待候へかしとぞ存候へ、此旨お申上度候つれども、先勘文に任申上候つる也、是は推条の了簡にて侍る上は、是程に思召立たる事お、兎角申さば、定て御気お損ぜらるべき間、斟酌仕りて候由お語りければ、小林お始て、心有人々は、本より此悪逆思立、軍に勝べき事、千に一も有べからず、人の滅びんとて思立悪事なれば、占も文も入るべきにあらずと口説つヽ、更に勇める気色は無りけり、