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比古婆衣

附、干支唱考、干支はもと、もろこしの国にて、暦お造る法にて、はた年月日お定むる料に設たる名目なるお、やがて日次お称ぶ目にも用ひ、〈但し、尚書益稷篇に、辛壬癸甲雲雲とあるお、四日也と注せり、当昔、日次お十干にて称びたりときこゆ、殷の世三十代の王の名の下に、かならず十干お一字づゝ著る例とせりと見えたるは、おの〳〵生日の干お取れるにやありけむ、又いと上古には、干ばかりお用ひて、支は後に作り加へて、用ふることゝせしにはあらざるかとおもふ趣あれど、いまだ考さだめざればいはず、〉後に、年に係ても称ぶことゝなりたるなるべし、〈かの国の古書どもの紀年に、干支おかけて呼べる例の、おさ〳〵きこえざる事、本考にいへるがごとし、〉暦には、月次にも干支おかけてものすれど、平常に、某の干支月といはざる、はたおもひ合さるゝなり、さて干支の義のもとは、皇極内篇に、十為干、十二為支、十干者五行有陰陽也、十二支者六気有剛柔也といへるほどのことなるべし、其お皇国言にうつして、十干の甲乙などお、きのえ、きのとなど唱ぶは、木の兄、木の弟の義なりと、はやくよりいひきたれるは、さることゝきこゆるお、〈十干のよみの、古くものに見あたりたるは、中納言兼輔卿集の物名の歌にみえたり、きのえなどのえお、悉衣の仮字に当てよみ給へり、さて此よみのさだまれるは、十二支とともに、はやくよりさだめられたりけむ、その十二支のよみのことは、下に論ふべし、〉十二支の子丑寅卯などお、ね、うし、とら、うなどよみて、鼠牛虎兎などに当て称び用ふるは、〈俗に酉字おひよみのとりと雲ひなれたるは、古きものいひざまのかたへ遺れるなり、清輔朝臣の童蒙抄に、日よみのうま、顕昭法師の袖中抄に、日よみのさるなどみえ、それより後の書どもにも、然る定にいへる例あり、みな准へ知るべし、○中略〉皇国にて鼠牛などの義にかなへて、よみお定め用ふる事となれりしは、いつの頃よりか始りけむ、万葉集、天平宝字二年正月三日〈戊子〉の四宴の時、詔お奉てよめる、大伴家持卿の歌に、始春乃波都禰(はつね)とみえたるは、初子なり、また同集に、卯字お宇の借字に用たるも、支のよみによれるなり、又申おましの借字に用ひたり、そのかみ、支のよみに、ましと唱びけるお、後にさると唱ぶことゝなりぬるにや、但しもとよりさるとよみたりけるお、わざと転じてましに当てゝ書くまじきにもあらざれば、さだめては論ひがたけれど、申お猴に当たるよみなることは著し、然れば初子の歌よめる天平宝字のころ、十二支のよみは、はやく定まりて、〈此歌よみ給へる天平宝字二年は、唐粛宗が世の二年に当れり、〉世に普き唱とはなりたりし事明なり、〈その十二支のよみおそなへて、ものに見えたるは、中納言兼輔卿集に、四隅お物名歌に、ひつじさる、いぬい、うしとら、たつみとよみたまへり、ね、う、うま、とりは、次第にて推して知られたり、〉さてその十二類の中に、鼠おね、兎おう、蛇おみとよむは、なべてはいはざる言のごとくなれど、和名抄に、鼠、禰須美とよめるに、また鼱〓小鼠也、乃良禰などみえ、〈野鼠なり〉又兎お宇佐木とよめるに、兎字お、古事記その外の古書どもに、宇の借字に用ひたれば、しか単言にもいへりしなるべし、蛇おみといへる例は、いまだみあたらざれど、和名抄などに、蛇倍美とよめるに准へておもへば、さもいひけむ、〈雞は、古事記の歌詞に、爾波都登理とみえたれど、又爾波登理とも、たゞ登利ともいふは、古も今もつねなり、〉但し、しか単言なるかたお、ことさらに選びて用ひたりげにきこゆるは、十二支の名お、連唱ふる音便のよからむために、定めたりしにやあらむ、かくておもへば、干支おとり用ひ始給へるはじめつかたの御世には、鼠牛などいへる説によれるよみおば、用ひ給ふべくもあらざるめれば、干支ともに、字音にて唱ふる例なりけるお、後に皇国言もて唱ふべく、そのよみお定めて、世に行はしめ給ひたりしにぞあるべき、