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太昊古暦伝

支干の起原は、五行大義に、支干者因五行而立之、昔軒轅之時、大撓之所制也、蔡邕月令章句雲、大撓採五行之情占升機所建、始作甲乙、謂之幹、作子丑謂之支、支干者枝簳也、相配成六旬、如樹木之有枝条茎簳、共為樹体也と有り、〈こは文お略して引たるなり、中に六旬の二字は、本に用字なれど、事物紀原に引たるに拠りて改めつ、支干になほ異説お載せれど、其説は取らず、 劉恕が外紀に、黄帝命大撓探五行之情、占升剛所建、始作甲子、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、謂之幹、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥、謂之枝、枝幹相配以名日、とも雲るは、是月令章句に拠れるにや、〉然れど大撓は黄帝の調暦お治むる時に補助おこそ為つれ、干支あに此人の始作ならむや、固より太昊氏の制作なること、其暦お甲暦と雲るにて、別に論ひ勿き事なり、〈但し此は早く羅泌が路史太昊氏の傅に、造甲子以命日月、配天為幹、配地為枝と記し、通鑑前紀太昊紀に、干支相配為六甲、而天道周矣と記し、共に諸書お引きて証せれば、今更に委くは雲ず、然れど諸史会編に、伏義氏昊英に命じて歴お作ると雲ふ事も有り、また史記の律書に、十母十二子とも、天干地支とも雲へり、其は十二支は、十干お母として、生れたる方位なればなり、〉斯て其制作の由来お索ぬるに、抱朴子尚博巻に、八卦生鸞隼之所被、六甲出霊亀之所負、と所見たる八卦の事は、既に古易伝に論へれば措きて、六甲お霊亀の所負に出たりと有るは、此翁の究覧せる玄典の古伝説なること疑ひなし、〈葛稚川翁は、白地にも、無稽の浮説お唱ふる人に非ざること、其子書お熟読玩味し、かつ予が別に著せる、此仙翁の傅に就て、能く其人品お知らむ人は、疑ひ有まじくこそ、〉抑六甲とは、六十干支の中に、甲子、甲戌、甲申、甲午、甲辰、甲寅の六は、各一旬の首に在りて、九干支お都るが故に、六十干支の事お謂ふに、六甲と称へば、即て其事なる太古よりの法言なり、〈○中略〉十干十二支お輪転相配して、甲子に始まり、癸亥に終れる様、左に視せる如きお、今は六十花甲と称すれど、古くは六甲と雲へり、其は甲子、甲戌、甲申、甲午、甲辰、甲寅、各々九干支お綜て其首たればなり、五行大義に、便以甲配子、尽干至癸酉、余支有戌亥、〈是甲子旬なり〉又起甲配戌、尽干至癸未、余支有申酉、〈是甲戌旬なり〉又起甲配申、尽干至癸巳、余支有午未、〈是甲申旬なり〉又起甲配辰、尽干至癸丑、余支有寅卯、〈是甲辰旬なり〉又起甲配寅、尽干至癸亥、〈是甲寅旬なり〉干支周畢、還従甲子起、故六甲輪転止六十、と有にて知べし、偖かく六甲の位の定まるに就て、自然に孤虚と雲ふ事いで来たり、此も同書に十日一旬之内、二支無配干者為之孤、所対衝者為之虚也、と見えたり、甲子旬には戌亥お孤となし、其相対ふ辰巳お虚となす、〈また別ては戌お易孤と雲ひ、亥お陰孤と雲ふ、〉甲戌旬には、申酉お孤となし、其相対ふ寅卯お虚となす、〈別ては申お易極と雲ひ、酉お陰孤と雲ふ、〉甲申旬には、午未お孤となし、其相対ふ子丑お虚となす、〈別ては午お易孤と雲ひ、未お陰孤と雲ふ、〉甲午旬には、辰巳お孤となし、其相対ふ戌亥お虚となす、〈別ては辰お易孤と雲ひ、巳お陰孤と雲ふ、〉甲辰旬には寅卯お孤となし、申酉お虚となす、〈別ては寅お易孤と雲ひ、卯お陰狐と雲ふ、〉甲寅旬には子丑お孤となし、午未お虚となす、〈別ては子お易孤と雲ひ、丑お陰孤と雲ふ、〉各図に依りて其趣お知べし、斯て虚お吉とし、孤お凶とする古例なり、〈或は虚お空と称し、孤お凶と称するなど、猶種々の説等聞ゆれども、其は都て取ず、〉