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北条九代記

時宗執権附御息所御産祈禱同〈○弘長三年〉十二月、将軍家の御息所、御産のこと近付給へば、宮内権大輔時秀が家お、御産所にさだめらるヽ所に、十七日戌の刻に、荏柄の社の前より、失火ありて、塔の辻まで焼来り、時秀が家も回禄せしかば、俄に武蔵守義政の亭に、入奉るべき評定一決し、同二十四日、御方違の沙汰おもつて、陰陽師らおめして、異見おたづねらる、二十四日〈○甲午〉は没日(○○)なり、御憚りあるべきかと、晴茂朝臣勘がへ申す、業昌朝臣申けるは、建長六年四月二十四日は、丙寅没日にて候らひしに、大宮院御産所に入たまふ、憚りなかりき、この度も、その例に任せらるべし、次に御方違(○○○)のこと、二十九日〈○己亥〉お用ひらるべきかと、業昌又申ていはく、其日は往亡日(○○○)なり、但し御産のことには、憚りいかヾと申たりけるお、晴茂は苦しかるべからずと問答しけれども、将軍家には、憚るべきの義お御許容あり、一日引越て、同く二十八日に、左近大夫将監公時朝臣の、名越の亭に入れ奉り、御産所と定めて、若宮の僧正御祈りの師として、加持し奉らる、次の日、名越より御息所は還御したまふ、