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梅園日記

厭日〈○中略〉或人問曰、右の二記〈○定家朝臣記、長秋記、〉に拠るに、八日十六日お厭日といへるにや、答曰、あらず、千金方に、月厭〈正二三四五六七八九十十一十二戌酉申未午巳辰卯寅丑子 亥〉と見えたる是なり、〈按に、黄帝竜首経にも載たり、〉さて天喜六年は、八月二十九日に、康平と改元あり、いま日本長暦に拠に、康平元年二月は、壬寅の朔なれば、八日は己酉にて厭日なり、〈延喜八年二月も、亦己酉にて厭日なり、〉長秋記の八月辛卯亦厭日なり、按に、観古雑帖に、天平勝宝八歳具注暦の零本お載て、三月三十日癸未、〈立夏四月節〉天恩九坎厭(○)、四月六日己丑、帰忌厭対(○○)とあり、四月は未厭日也、さればふるくより有し也、〈○中略〉 厭対〈○中略〉周礼占夢疏に、張逸問占夢註雲々、答曰、日月在辰尾、夏之九月、辰在庚〈○註略〉未、有尾星、建戌厭寅、寅与申対雲々、問曰、何知有此厭対之義乎、答曰、按堪輿黄帝問天老事雲、四月陽建於巳、破於亥、陰建於未、破於癸雲々、按ずるに、九月建戌厭寅とは、九月戌に建す月にて、寅お厭日とす、寅与申対とは、九月の厭対は申なり、又四月陽建於巳、陰建於未とは、四月巳に建す月にて、未お厭日とするおいへり、厭対とは厭に対する意にて、毎月の厭日の七つめに当る十二支なり、