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鬼門考
古の大内裏の図に、東北の隅かゝれしとも見えず、但梨木の地は、内裏の東北の外にあり、彼地空閑の地のよし記したれば、これもし塞がれざるの心にや、今の内裏は光明院のみかど御即位の時、もとの内裏の悉く焼しかば、陽徳門院の土御門の御所のやけのこりしお用ひられて、仮の内裏となされしなり、〈○中略〉これ等東北の隅かゝれしとは見えず、近くは神祖〈○家康〉の御時、外城門おたてられしに、東北の方にあたり侍るよしお申人ありしに、さらばとて、名お筋違橋の門と名づけさせ給ひしのみ、鬼門とは改めさせ給はざりき、徳祖〈○秀忠〉の御時、御殿つくられしに、東北の方おばかくべきよしお申せしに、笑はせ給ひて、天下は猶一家のごとし、我家の鬼門は蝦夷地にあたるべき、その外の地は禁忌に拘はるに不可及と仰られしよし、つねに御側にありし人の物語りせしと承りぬ、