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平治物語

信西出家由来并南都落事附最後事信西、九日午刻に、白虹日お貫く(〇〇〇〇〇〇)と雲天変お見て、今夜御所へ夜討可入とは知たりけるにや、此様申入んとて院御所へ参たれば、折節御遊にて、子共皆御前に伺候したりしかば、其興おさまし進らせんも無骨なれば、有女房に子細お申置て罷出にけり、宿所に帰り、紀伊二位に懸る事あり、子共にもしらせ給へ、信西は思旨有て、奈良の方へ行也と雲ければ、尼公も同道にと歎かるれ共、やうやうにこしらへ留て、侍四人相具し、秘蔵せられたる月毛の馬に打乗て、舎人成沢お召具し、南都の方へ被落けるが、宇治路へ懸り、田原が奥大道寺と雲所領にぞ行にける、石堂山の後、しがらきの峯お過、遥分入に又天変あり、木星寿命亥にあり、太伯経典に、侵時は志臣君に代奉ると雲天変也、信西大に驚き、本より天文淵源お究たりければ、自是お考るに、強者弱弱者強しと雲文也、是君奢時は臣弱く、臣奢時は君弱くなると雲へり、今臣奢て君弱くならせ給ふべし、忠臣君に替ると雲は、恐らくは我なるべしと思て、明十日の朝、右衛門尉成景と雲侍お召て、都の方に何事かある、見て帰れとて差使す、成景馬に打乗て、馳行程に、小幡峠にて、入道の舎人武沢と雲者、御所に火懸て後、禅門奈良へと聞しかば、此事申さんとて走りけるに行逢、然々の由お語り、姉小路の御宿所も焼払はれ候ぬ、是は右衛門督殿、左馬頭殿のかたらひ、入道殿の御一門お滅し給はんとの謀とこそ承候へ、