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大友興廃記
十四
石宗討死之事此石宗と聞へしは、軍配においては、諸家の伝お知て功者たる故に、去九月〈○天正六年〉に、本卦当卦、其外のかんがへおもつて、当年日州の方へ大事お催さるゝ事不相応なるよし申上らるゝにも、宗麟公御同心なし、又当陣においても、掛引の利おいはるゝに、鎮周用ひられず、彼是以て勝利なし、去程に、十一日の晩、味方の陣の東の手先より気立て、敵城の内へなびき入、石宗、野心の気とかんがへらるゝ、さてこそ其気の下より筑後の星野蒲池お先として、二心出来たり、また十一日のあかつき卯の刻の終り辰の始、南に血河の気と雲雲気立て、味方の上にたなびき来る、石宗見て、此気味方にむかひきたるは、河にて亡べき雲気とかんがへ、鎮周方へ、使者おもつて申さるゝは、昨日より、万事の評定にこそ御同心なくとも、雲気立申候、是はきらい所有儀にて候、せめて此気の替り迄ひかへられ可然ぞんずる由申されければ、其返答に、此鎮周、元来下男の生れにて候へば、雲の上の軍は仕まじく候、雲はともあれかくもあれとて、無思付返事なり、其外、今度は、一つとして吉事の相はなく、悪事の告のみ也、とかく天道より味方の利お罰し給ふと見へたり、かくのごとくたがひの運の勝劣果報のさかんなること、末ごの時節にやあらん、先陣一軍の大将鎮周、我差図おそむき、軍法お破る事、是不忠のいたりなり、殊に大守の御差図の御目利むなしくなる事、不忠の上の逆心なり、諸軍の心得も鎮周に同意や否、かく物の喰違ひする事、皆是天運也、此度の軍に利おうしなひなば、我ながらへて詮なき事と思ひ入、秘伝の数巻お焼捨、平人に成かわり、討死す、