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太昊古暦伝
一天象篇
是北極に対する南極と雲ふ所あり、其は天経或問に、南北極者、天体永久不動之両点、周天倚為環転之枢者也、故名為極、〈極如輪之轂、如磨之臍非星也、雲極星者、蓋指其近極之星而名耳、〉而居中有不転之所、以為之心、故南北有不転之極、以為之枢、太虚空洞、固有不転之神化、以為之主、而後此天得以循行万古而不越也と雲るが如し、〈西川正休雲、二極は南北極なり、九天之枢軸たる所お雲ふ、枢には無星にして、験すべき者なし、故に枢の側に三度お去りて星あり、此お測極星と号す、此星お以て北極枢の目的として、測器にて是お窺測して、国に随ひて北極の高低ある事お察し、幾度なる事お知て、其国の寒熱気候お察す、測極星は赤道お越て南方の地よりは見えず、南方の諸国にては、南極星お測見し、各其他の赤道お雲る度お知りて、国の気候寒熱お考ふ、北極の度に測知すれば、南方の地上と共に推て察するに分明也と知べしと雲るも然る事なり、〉さて今世幕府の士に、朝野北水と雲ふ人あり、此人の北極星の旋お考へたる説に、此星の動ある事お知ずては、諸国にて出地お測量すること能はざる者なり、其は譬へば北極出地三十度の国にて測るとき、刻により三十六度にも見え、或は三十三度余にも見ゆる事あり、三十六度と為れる時に見たる者は、其国お三十六度の国と定め、三十四度と為れる時に見たる者は、三十四度として各々見たる所お以て測量し得たりと思ふ故に其説区なり、是北辰と北極星とお一〈つ〉に思ふが故にて、昔の書にも北辰と北極星の差別なし、〈篤胤雲、昔の書に北辰と北極星の別なしと雲〈へ〉るは誤なり、其は今の本文に、極星与天倶游而天枢不移と有る天枢、やがて北辰なるにて知るべし、然るお天宦書天文志より次て、後の天文書に、此議麁略になり来て、よく其差別お説著せる書なき故に、かく雲へるなるべし、斯て天経或問に至りて始めて其差別お説出せること上文の如し、〉辰とは都て星なき所お雲ふ、北辰は総天の北枢なり、枢は少も動かねど、北極星は其側に在りて小旋する故に、微動といふ、然れども天経或問に、上下に三度づゝ旋ると雲へり、上下三度宛は六度なれば、微動と雲べからず、余積年研究して其微動の極お得たり、〈篤胤雲、以上の説お前文と雲て、門に入ざる人に其伝お伝ふる事なし、甚秘すべき事なりとて、筆お止めたるが、次に是より以下の文お出せり、是謂ゆる秘説なり、〉其まづ北極の第一星と第六星と第七星とお能見定めて、第一星の上にても下にても、第六星、第七星斯の如く見ゆるは、北辰と相並びて東西するなれど高下なし、是出地測量の刻限なり、また第一星より東の上にて斯の如く見ゆるは第一星高しと知べし、またかくの如くなり、或はかくの如くに見ゆるとも、右に准じて測るときは、第一星三十六度に見ゆるとも、実は三十五度の国なりと知べしと雲り、是は実測に協へる説なり用ふべし、〈此北水と雲ふ人の説は、天象話説と題せる伝書なるお、我が門人稲垣正雄が、早く其門に入りて其伝お受たると、安藤直彦が蔵たる本とお合せ見て記せり、〉