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有徳院殿御実紀附録
十五
公、御位のはじめには、御納戸に窺天の器あまたありしかど、みな巧おつくせし玩物のみにて、実用にそなふべきはなかりしかば、御みづから御考索ありて、器物多くつくらせたまひしが、小姓土岐左兵衛佐朝直、浦上弥五左衛門直方等奉りて、紀州の良工加藤金右衛門おめし、さて成島道筑信遍に、書経瓊璣玉衡の章お講説し、または仮名に訳して授しめらる、かくて金右衛門、暦象の大意おほゞ明らめし上に、御みづから御教諭ありて、混天儀(〇〇〇)お造らしめらる、その製、高さ八尺にして、革お漆にてかためしかば、昼夜ともに露台の上におき、雨露にあたりてもやぶるゝ事なし、此混天儀の中に入て、天お仰ぎのぞむ時は、日月星の分度さだかに見るべしといへり、ある時、河合久円成盈〈同朋格奥詰〉に、暮の極星と暁の星と相むかひ、角のかたにあるべし、みて参るべしと仰られければ、久円かの器の中にはひ入て、仰ぎみしに、はたして仰のごとくなりしとぞ、かくありし後、いよ〳〵改暦の事お思召立せ玉ひ、ふたゝび器用あまた製し玉ひけるが、中にも彼混天儀の製お変じ、日月星お一つらに測量せん為に、繁砕おはぶき、簡易にせらるべしと、年頃御考ありしが、延享元年にいたり、思召のまゝに其器おつくられしかば、簡天儀(〇〇〇)と名づけ玉ひけり、今にいたり、司天台用ゆる所のもの則これなり、のち律暦淵源といへる書お、長崎より進らせしに、その中に、乾隆九年清王の英略もて、新に造られし撫辰儀といふものおしるしたるが、まさしくこの簡天儀の製に少しもたがはず、しかも我延享元年甲子は、かれの乾隆九年にあたれり、年といひ、事といひ、かく暗合せること、ひとへに英明の主は、和漢ともにひとしき御事なりと、今さらに感仰し奉る所なり、