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暦道は、古は天文道と共に陰陽寮の掌る所にして、日月行度の盈縮お推し、時序節候の進退お計り、以て暦お造りて、時お授け日お知らしむるお要とせり、暦の我史上に見えたるは、欽明天皇の朝、百済より暦本并に暦博士お貢し、尋で推古天皇の朝に至り、書生おして造暦の法お学習せしめしお以て初とす、蓋し当時三韓の暦法は支那より伝へしものにて、其術東漸して我に及びしなり、持統天皇の時に至り、劉宋の何承天の元嘉暦、李唐の李淳風の儀鳳暦お併用す、其後天平宝字中、唐の大衍暦お用いる、大衍暦は唐の僧一行の作る所なり、貞観年中、改めて長慶宣明暦お用いる、宣明暦は唐の徐昂の作なり、此間唐は更に郭献之の作る所の五紀暦等お用いしと雖も、我は終に改むるに及ばざりき、蓋し支那に在りては、是より後、歴代頻りに改暦お行ふ、元には郭守敬の授時暦あり、明には回々暦に本づきたる大統暦あり、其法の精密なること往時の比にあらず、然るに我国にては、貞観以降久しく改暦の挙なく、暦法大に差錯お致しヽお以て、貞享元年徳川綱吉の時、澀川春海表お上りて改暦お請ふ、是年朝議ありて明の大統暦お用いんとす、春海復た上表して、大統暦の欠点お指摘し、自作の新暦お進む、之お貞享暦と雲ふ、貞享暦は即ち郭守敬の授時暦に拠り、里差お加へて法お立てしものなり、其後延享中に至り、徳川吉宗、我暦法の未だ精確ならざるものあるお察し、明の崇禎暦書お考覈して補暦せしめんとし、其薨去によりて果さず、宝暦四年に至り、前暦お修正し、漸く改暦の典お挙ぐ、之お宝暦甲戌暦と称す、司天の官益々意お験測に留め、完政九年、暦象考成後編に拠りて、更に改暦の挙あり、之お完政暦と称す、暦象考成は崇禎暦書に基きて成る所にして、其後編は洋法お参用して、校訂お加へたるものなり、而して天保十三年に至りて、再び完政暦お改刪し、復た改暦の挙に及べり、是お天保暦と為す、爾来復た改暦の事なく、明治五年に至り、太陽暦に改められたり、古来暦面は、上中下三段に分ちて、日の吉凶、気節の変等お注記す、之お具注暦と雲ふ、又七曜暦と雲ふものあり、共に陰陽寮の造くる所にして、毎年之お奏上す、之お御暦奏と称す、又中星暦と雲ふものありて、八十二年一度造進すと雲ふ、而して官暦は皆真字お以て書するが故に、民間の使用に便ならず、是に於て後には仮名お以て写し、之おかなごよみと称せり、又伊勢の神宮、伊豆の三島、武蔵の大宮、及び薩摩等よりも、各々暦日お製作して頒行せり、而して陸奥南部よりは盲暦と雲ふお出せり、暦本の製造は、古代は都て陰陽寮にて掌りしが、徳川時代に在りては、江戸天文方にて之お作り、京都に送りて、土御門家にて中段下段の注お記入し、更に江戸に廻付し、然る後始て写本お以て諸国の暦師に頒ち、暦師は又各々之お印刷して頒布する例なりとす、而して伊勢頒暦の由来は、戦国の比、祭主藤波家の奏請に由りて、土御門家より暦本の印刷頒布お允したるに由れるならんと雲ふ、