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比古婆衣

日本紀年暦考真暦考に、〈○中略〉もろこしの国のこよみの皇国に渡り来つるは、まづ師木島宮の御世〈欽明〉の十四年に、暦博士また暦本おたてまつれと百済国に勅ありて、同十五年に、暦博士固徳王保孫といへる人まうで来つる事見えたり、これや始なりけむ、されどいまだ世には行はれざりしお、又小治田宮〈推古〉の御世の十年に、百済の僧観勒といふがまうで来て暦本お献りしお、陽胡史の祖玉陳といふ人、この僧に暦法おならひて、事なれりとは見えたれども、此時もまさしくこれお用ひて、世におこなひはじめ給へりし事は見えず、政事要略に、此御世の十二年正月朔より始て、暦日お用ひ給ひしよし見えたり、さもあるべしといはれたり、これにつきてなほ考ふるに、件の欽明紀十四年の度には、六月遣内臣使於百済雲々、別勅医博士、易博士、暦博士等宜依番上下、令上件色人正当相代、年月宜付還使相代、又卜書、暦本、種々薬物可上送、とみえたるおよくおもふに、はやく神功皇后の韓国お征給ひ、其国の御政せさせ給ふにあはせては、かの国にて用ふる文字おも朝廷にて知食し、彼が奉れる書どもお読しめ給ひ、またこなたよりも詔詞書せて賜ふべく、又上古よりありこしまゝにて、神ながらなるおほらかなる御政のみにては、新しく臣服来れるこちたき韓国人お治め給ふ御政には、備はらぬかたもありぬべきお、さらに其韓人の情お知召して治め給はむには、便よきかたもあるべく、又かの国より奏せる事などおも記しおかしめ給ふべく、そのほかよろづに便よかるべければ、その文字の義おもこなたにて知召し、なべて便よからむかたには、こなたの事にかけても、かつ〴〵用ひさせ給ひたるべく、〈この文字の皇国にうつり来り、其お普く世に用ふる事となり、つひにもろこし籍お召上げて、其国風の事お学びとらせ給ひつる趣の本末の考は、中外経緯伝に論へり、〉またかの国にて用ひ来れる年月日次の定お知召さずては、八十艘の調貢船の往還などお正さるべき便よろしかるまじく、はたこなたにてもさる定あらむに、かれとこなたとしるしあはするに便よきわざなれば、かた〴〵かの国にて用ふる暦の、一年一月の日数の定などお、年々に召上て用ひ給ひたりしなるべし、〈もろこしにて外の国々お懐けなどして、おのが国の暦お授け用ひさせて、其お正朔お授くなどいひて、わが臣国なりと称ひて、われたけく誇りおるとは、いたくしな殊にて、そのかみ皇国にしては、ことに暦といふべき事おしたゝめて用ひ給へることはあらず、おのづから其定ありて、よろづにたゝひたりつれど、から国お治め給ふとして、かの国にて用ひ居れる正朔お献らしめて、取用ひ給ひたりしことわりなり、〉さてその欽明天皇の御世におよびては、その暦おまたく用ひ給はむとして、其道の博士お召上て、常に交替仕奉るべく詔ひつけ給ひ、暦法の書おも奉らしめ、其趣お聞召し、臣たちの中おえらびてかつ〴〵学ばせ給ひたりしなるべし、かくて〈敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇の御世お歴て、〉推古天皇の御世におよびて、紀に、十年冬十月、百済観勒来之、仍貢暦本及天文地理書雲雲書也、是時雲雲、陽胡史祖玉陳習暦法、大友村主高聡学天文遁甲雲雲、皆学以成業とみえたり、かくて同十二年より其暦お用ひ給ひ、始て天下に頒行はせ給ひたりしなり、其は政事要略廿五巻に、儒伝雲、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊戌朔始用暦日、〈伊呂波字類抄に引載たる本朝事始にも如此いへり〉とみえたる是なり、書紀には、是日に始賜冠位於諸臣各有差と見えて、始用暦日の事みえず、かゝる重事お記洩さるべきにはあらざめるお、既く写脱せる本の、今の世に伝はれるものなるべし、〈さて又今も法隆寺に在る釈迦仏光後銘文に、法興元卅一年、歳次辛巳十二月雲雲、明年二月廿一日癸酉雲雲、とある辛巳年は、推古天皇二十九年に当り、また其下文に癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像、と記せる癸未年は、同三十一年に当りて、此仏像お造りて、すなはち彫りたる文なり、かの始て暦日お用ひ給へる十二年より、二十年の後に当れり、そのかみ既に暦日お用ひ給ひ、年にも日にも干支お当て行ひ給ひたりし証とすべし、然るに伊予風土記に載たる、大分速見湯の碑文に、法興六年歳在丙辰とみえたるは、同天皇の四年に当れば、此は彼暦日お用始め給へる十二年より、十二年前なれど、此は後に定めたまへる暦日お遡せて作るものとすべし、さていはゆる法興は年号ながら、後の御世のとは其趣同じからず、すべて上古の年号年立の事は長柄山風の附録年号論の中にいへり互に考合すべし、〉其のち持統天皇の御世におよびて、〈政事要略に、右官史記雲、太上天皇(持統)元年正月頒暦諸司とみえたるは、前の頒暦の例の外に、別に諸司ごとに暦お頒賜ふ事お始給へる由なるべし、この事書紀には見えず、さて此右官史記は持統天皇の御世の事お、太上天皇元年と記せるおおもへば、文武天皇の御世の右大史の記なるべし、〉紀に、四年〈庚寅〉十一月甲申、勅始行元嘉暦与儀鳳暦とみえたり、〈中根元圭の皇和通暦に、件の両暦お推算して、この御世の五年より、元嘉暦お用ひ給ひ、文武天皇元年より、儀鳳暦お用ひ給ひしものなりといへり、此元圭といへるは、暦道に卓れて精しき人ときこゆれば、きはめて然ることなりしなるべし、〉かくて皇和通暦に、持統天皇遡至神武天皇、歳月支干、昭然可見、而推諸異邦諸暦、率多抵牾、伏稽、崇神天皇時、遠荒不奉正朔、遣六師討之、載有明文、則知吾邦神聖開基、自有若天授民之教焉、世多憾歴古杳貌湮滅不伝也、今特因史籍支干朔望之所在、推而求之、則其法具存矣、蓋千三百有余年間三更斗憲、神武天皇東征甲寅以至仁徳天皇十年壬午、凡九百八十九年、一法今号曰上古暦、同十一年癸未以至皇極天皇元年壬寅、凡三百二十年、一法今号曰中古暦、同二年癸卯以至持統天皇五年辛卯、凡四十九年、一法今号曰晩古暦といひて、持統天皇以前不知用何暦、則又不知用何建といへり、〈此考説の中に、晩古暦お至持統天皇五年辛卯といへるは意得がたし、さるは四年庚寅の十一月に、勅始行雲雲暦とみえたるは、改暦せさせ給ふ詔にて、翌る五年正月より其暦お頒行ひ給ひたりしなるべければ、至四年庚寅凡四十八年と書べきお、ふと書錯りたりとみゆ、又いはゆる上古、中古、晩古の三暦お、神聖開基若天授民之教といへるは、そのかみの国史お熟く読て、世のさまお稽へわきまへざりつるが故に、暦法の異なるに惑ひ、書紀の崇神天皇の御世に、遠荒不奉正朔、と記されたる、此紀の例の漢文の潤飾の正朔の語に泥めるにて、かたはらいたき説なり、〉さてこの推算暦法によりて、今おのれが考に当て推考ふるに、おほよそ神功皇后の御世のころより、〈そのかみ韓国にて、はやくよりもろこしざまの暦お用ひたりとは決く聞ゆれど、その国にてさらに作れるにか、又もろこしより得て用ひたるにか、神功皇后の御世のはじめつかたは、もろこしは後漢の献帝が世のころにて、はやく夏の定めの如く、今の正月お正月として在こしなり、〉仁徳天皇の十年壬午まで、百済の暦日お用ひ給ひ、そのほど其国人などに命せて、其暦法によりて上世に遡て年紀お製らしめ置て、さて韓国御征のはじめより、御政にあづかることゞもおもはら記さしめ給ひ、又上古より語継来れる古事おもかつがつ記さしめ給ひたりしなるべし、〈これまでいはゆる上古暦の間なり〉かくて仁徳十一年癸未よりは、〈もろこしは、西晋の明帝が世に当れり、〉かの国にて改たりけむ暦日お用ひ給へるほど、上にも論へる如く、欽明天皇の御世におよびて、百済より暦博士おめさせて、其趣おきこしめし、その暦法お習はし試みて、こなたにて暦本作らしめ給んとせさせ給ひたりけんが、業ならでやみたりしに、推古天皇の御世の十年に、さらに玉陳に命せて、百済僧観勒に暦法お習はしめ給ひ、業成てければ、始てその暦本お作らしめ給ひ、十二年甲子より天下に頒行し給ひ、〈いはゆる中古暦なり、是年もろこしは、隋の文帝が世仁寿四年にて元嘉暦お用ひたりけむお、元主が考に、其暦法ならずといへば、そのかみ百済の改法なりしなるべし、〉又皇極天皇二年癸卯より暦法お改め給ひ、〈いはゆる晩古暦なり、但しこれも又百済改暦の法なりしか、又はこなたにて改させ給へるか、考ふべき由なし、もろこしは唐の太宗が世の貞観十七年にて、なほ元嘉暦お用ひたりけむ、〉持統天皇五年より元嘉暦お用ひ給ひ、〈元嘉は劉宋の文帝が世の年号なり、允恭天皇の御世に当れり、〉文武天皇元年より儀鳳暦お用ひたりしなり、〈儀鳳は唐の高宗が世の年号にて、天武天皇の御世に当れり、さて此後の改暦の事もくはしく通暦に記したれど、こゝにはいたづらなれば雲はず、〉