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和漢運気指南
後編
本朝用暦〈付〉改暦事日本往古何れの暦法なりしこと未詳、唐土も漢朝以前の暦は不詳、漢太初暦法、粗史記漢書に志せるより聯綿として不絶、本朝応神帝の御宇、儒書初めて朝に入て漢字に通ぜり、此の時既に用暦なくんばあるべからず、按ずるに漢暦お用ひられしならんか、四十一代持統天皇の御時、南宋の元嘉暦お用ひられたり、聖武天皇の御時唐の儀鳳暦行れ、廃帝天皇の御時、唐の一行禅師の大衍暦用られ、清和天皇の御代、唐の徐昂が造れる宣明暦お用ひ給ひしより以来、貞享元年甲子に至つて、皇家六十七世お経て、八百弐拾五年に及ぶまで、終に改暦の事なかりし、唐土に於ては宣明暦の後崇玄、欽天、応天の数暦、其外改暦代として無之はなし、皆其暦久しき時は、天と暦と差ふ事ありてなり、蓋造暦当時の天度に密合すといへ共、天行不尽の差あるに依て、年お積こと久しきときは、造暦差なきこと不能、此故に宣明暦今時の天度に後るヽこと、当暦に較るに気節二日余後れ、合朔或は一日の違ひありし、是に依てか朝廷暦家に勅ありて、貞享二年宣明暦お止めて今暦お行はる、貞享暦と号す、今清朝の時憲暦に較べ考ふるに、朔望は凡違ひなしといへ共、清暦の気節、冬至後は和暦に先だつこと一日、或は二日、夏至後は和暦に後るヽこと一日、又は二日なり、此故に閏月又一二月の先後あり、此両暦熟か正法なること未知、暦世の後に於て天度に差ふこと少きお以て善暦とすべし、予め是非お論ずるに詮なし、