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天朝無窮暦

神武天皇東征七箇年の紀年お初として、次々二三四五の巻々お経て、是六巻持統天皇十一年といふ丁酉歳まで、一千三百六十四年にて、日本書紀に載させ給へる紀年暦日、みな挙げ尽せるに就て、こゝに論ひ結むべき事なむ有る、そは右天皇四年庚寅歳の紀文に、十一月甲戌朔甲申、奉勅始行元嘉暦与儀鳳暦と有るは、元嘉にまれ、儀鳳にまれ、一暦お純用せず、二暦お相兼ねて用ふる由なり、〈下に出す清和天皇紀なる大春日朝臣真野麻呂の上言に、斉衡三年に大衍暦と五紀暦とお相兼用ひて、偏用せざれと詔ひ出たるよし見えたるは、此お先例となし給へるにぞ有るべき、〉さて紀文に、斯の如く四年の十一月より、右の二暦お行ふとは有れど、こは実には然らず、其は上第三十一葉の表、天武天皇十一年の所に、標記せる如く、是年の六月壬戌朔より、子初刻に起る策お用給へるが、持統天皇六年といふ壬辰歳の十月まで、百二十九月の間なる朔、御紀に百二十出たると、尽に符合せり、〈また此百二十九月の中に、四閏月あるに、是また一つも違はざれば、気朔もまた符合せるなり、〉然て此次第に推下れば、此天皇六年といふ年の十一月は小にて、壬辰朔なるに、御紀に、九月癸巳朔、十月壬戌朔、十一月辛卯朔とあれば、九月十月は朔の干支こそ古暦と合へ、連小の月なるは、後暦の法にて、古暦に都て無き事なれば、紀文の四年は、六年の誤かとも思はるれば、此は姑くさし措て、其十二月より同十一年丁酉歳の閏十二月まで、六十三月お比校するに、御紀に、此朔五十七出たる中に、十年丙申歳の十二月と、十一年丁酉歳の四月と、たゞ二朔合ざる耳にて、其余五十五朔みな符合せり、故其五十七朔お元嘉暦と比校するに、六年の十一月、十年の十二月、十一年の四月、八月と、凡て四朔合はず、儀鳳暦と比校すれば、六年の三月、五月、九月、七年の十二月、八年の五月、九年の七月、八月、十年の三月、五月、十月、十一年の二月、六月と、都て十二朔合はず、〈此元嘉儀鳳二暦の比校は、既く中根璋が皇和通暦に比校せるに依て雲なり、〉故考ふるに、御紀に、四年十一月より始行ふと有れど、此は澀川氏の長暦に、其六年の所に、右の紀文お引きて、五年之支干、皆拠古暦、是歳九月、十月、比月小始于此と雲る如く、四年十一月にしか詔ひ出ては有つれど、五年お経て、六年九月までは、其二暦お用ひず、仍古暦お用ひしこと論ひなし、〈然るお皇和通暦に、右御紀の全文お引つゝ、其四年と五年とおおきて、六年壬辰歳より以下お論じたるは、麤略なる事なり、〉斯て此六年と雲ふ壬辰歳に至りて、実に始めて二暦の法お用ひて、九月の素より小なるに、十月おも小と為して、比月の小お始め、十一月は小壬辰朔なるお、大辛卯に改め給へり、然れど其はたゞ是十一月のみこそ有れ、其十二月大辛酉朔よりして、復元の古暦の儘にて、十年と雲ふ丙申歳の十一月小己亥朔まで四十九月、連大の所在も、何も古暦なれば、此四年の間も、かの二暦法お用ひられざること丙焉なり、〈澀川翁の長暦に、自六年用儀鳳暦と雲へるお、通暦に論ひて、源春海以為、壬辰以距天平宝字七年癸卯、通七十二年、用儀鳳暦とて、其説お斥せるは、然る事なれど、三代実録なる、真野麻呂の言に、始用元嘉暦、次用儀鳳暦とあるに拠りて、此六年の間、元嘉暦お用ひ給へりと為たるは、考究なほ委からず、其は次に雲ふお見て知べし、〉然て此丙申歳の十二月は、大戊辰朔なるお、小己巳朔となし、丁酉歳の正月小戊戌朔と比べて、連小となし、二月三月は連大なるお、大小と為して、四月小丁卯朔なるお、大丙寅朔となし、八月乙丑朔は古暦と合へど、此は書紀こそ有れ、続紀には八月甲子朔とあり、然れば七月八月また連小なり、かく打合せて考ふれば、其十年といふ丙申歳の十一月より、古暦お廃して、再更にかの二暦おかね用ひ給へるなり、故是お以て、此丁酉歳ごろの御紀なる暦日は、元嘉にても、儀鳳にても、全くは合ひ難くぞ有ける、〈然るお皇和通暦に、按此丁酉如従元嘉、則四月八月十二月之朔不合、且閏在十月、従儀鳳、則唯二月六月之朔不合耳、故今断以丁酉為用儀鳳暦之始、其国史之有所不与暦法相合者、蓋縁当時司暦失算焉耳と雲へるは、信がたし、其は此比校にても、元嘉にて合ざるが、儀鳳に合ひ、儀鳳にて合ざるが、元嘉に合ふお以ても、兼用せること著明なり、唯そが中に、儀鳳お専と取りて、元嘉お次に為たらむと思はるゝ事ども多かり、〉斯て此より年経て、いつと無く、元嘉暦お兼用ふる事お停めて、儀鳳暦のみ純用ひられし故に、天平宝字七年の紀文に、廃儀鳳暦とのみ見えて、元嘉暦の事は無きなり、扠是より後は、皇朝固有の古暦おば、一向に廃果まして、次々に異邦の諸暦お用ひ給ふ事と成ぬ、