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新蘆面命
元禄甲申〈○十七年〉三月十一日、先年中村的斎お訪ふ、的斎授時の私考お出し、我に授けて曰、我授時に志あること年久し、然れどもとくと成就せず、君宜しく成就し王ふべし、さて此授時もいまだとくと不合、消長一分とあるも、二分にてよしといへり、我其時は何とて二分と雲事おしらず、其後、会津中将殿思召に、兎角宣明にてはなし、授時可然と仰られ、御家来安藤市兵衛、島田覚左衛門と申両数者に命じ、数年授時暦の工夫いたし候へと仰られ、年お歴て其功なる、さて改暦に御志有之、右両人に算させ、拙者と山崎翁両人に承り候様にと有之、毎日立会見申候、猶授時の通に別儀なく候、然ども至元十八年お元に立候事、元は日本お侵し候敵国に候へば、如何と申事に有之、さらば当年お元にして作り直し可然と仰られ、それになり候、夫より至元十八年の歳実お置、四分消して歳実といたし、誠に難なく見へ候、此消申候歳実にて立かへり、至元十八の冬至お求め候に不合候故、いろ〳〵と致し見候へ共不合申、そこで我等ふと合点いたし、四百年以後お以て至元にいたし申候時は、四分消ざるはあたりまへなり、又四分消し、合て八分消して、これお立元の歳実と定め置て、さて立返り、至元十八冬至お求べければ、四分長して求れば、授時の冬至合ひ、上下斉々妙不可言事也、如此発明す、先生及安藤氏も皆々心服して、中将殿へ申上候、然所中将殿、御死期一両日前に、交食有之候処、宣明は合はず、授時は合候により、辱くも中将殿、稲葉美濃守殿へ御遺言なされ、改暦の事、算哲〈○保井〉へ被仰付候様にと有之候、依之雅楽頭〈○酒井〉殿へ被仰合候処、又其比五月の食お授時には食なしと申上候処に、三分計り有之候、宣明は合候により、雅楽殿、何とも算哲が申分とも不被存候と仰られ、改暦の沙汰はやみ申候(○○○○○○○○○○)それより累年優劣お考申候所、授時にても十分不合、そろ〳〵と隻今の法になり候、誠に雅楽殿御いそぎ不被成候故に、如此になり申候、 貞享暦と申名は、一条関白殿御物数奇なされ勅許なり、〈○中略〉 十三日、延宝三年乙卯五月戊子朔日、日食一分、申五刻甚しく、此食に付て、授時お行ふ事やみ申候故、肥後守殿〈○保科〉御遺言にて、改暦可有之候処、此食授時立分不協候、授時暦には食無之と雅楽殿へ申上候処、思之外宣明之通に食有之候故、雅楽殿仰られ候は、算哲が申分、合もあり、不合もあり、先改暦の事は無用と有之、其後いろ〳〵工夫いたし、今の暦に成候、此食授時の算違ひ候は、此時夏至の時分故、縮減に授時なり申候後に、貞享に成て、又盈差三十ほど有之、加へ申候故、食一分四十秒になり候、け様の所より、盈縮お改申候哉、〈○中略〉 貞享二年乙丑五月甲戌望、丑の初刻に虧初む、これ改暦より初ての食也、此時水戸殿〈○徳川綱条〉の天文学者川勝六右衛門と雲者難じて曰、此食授時暦に初虧子の四刻なり、然るに新暦には丑の一刻初虧と付たり、扠々おかしきことかな、我等算哲に問候へば、里差お加へ申候はヾ、此後十一月十五日の食、授時と刻限合候はいかヾ、〈十一月望の食、授時の刻と貞享と同じ、故にしかいへり、〉其実は、算哲事、授時からが得とゆかぬと見へ候などと、甚だ悪口申候、其夜中山大納言篤親卿の所にて、祈禱有之、出雲路玄仙と、彼川勝、其外大勢参り候、川勝、衆中に向ひて申候は、今夜の食にて、新暦の合候哉御覧候へ、授時の食は子刻也と申す、さて九つの鐘打候へば、いづれも庭上へ御出なされ候へとて、出でヽ窺ひ見候へども、不食、九つ半までは子の刻なれば、御覧候へと申候へども、中々不食候故、あまりに笑止になりて、一人はづし、二人はづし、にげ申候、其後漸々八つ打申候時、初虧申候、これお無念に存じ、六右衛門は、其後老病と号し、暦算お止め申候、