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有徳院殿御実紀附録
十五
やがて、暦法おあらため玉はんの御心なりしに、顧問に備ふべき建部彦次郎賢弘、不幸にしてうせければ、しばらくその人お求めさせ玉ひしに、そのころ長崎にて、天文の学お講じたる西川如見忠英が子に、忠次郎正休といへるあり、よく家学おつぎて、其術は精微に至りしが、家産おとろへ、たづきなかりしかば、江戸に来り、天経或問お講じ、口お糊して有しお聞召及ばれ、浦上弥五左衛門直方おして、御糺しありしに、其術衆にすぐれしかば、吹上の園にめされて測量せしめ玉ひしに、忠次郎が申す所、盛慮に暗合せしかば、天文方になされ、神田佐久間町に司天の所お設けて、測量の調度ども、のこりなくかしこにうつさる、故の天文方澀川助左衛門春海が子六蔵則休、〈後図書〉忠次郎と共に、主管して測量しけるに、改暦の事大かたとゝのひしがば、二人仰お承りて、京にのぼり、土御門三位泰邦卿に、改暦の事おはかりしに、泰邦卿申けるは、このこと容易ならねば、京にて再三試たるうへならでは定めがたしといふ、さらばとて、梅小路に測量所お設け、その費用は、年毎に金千二百両、米九百俵お賜りぬ、しかるに桜町院崩ぜられしかば、しばし改暦の事おのべられ、翌年〈○宝暦元年〉仰出さるべしと定られしに、公〈○徳川吉宗〉また大漸にいたり玉ひしかば、此事遂に盛意のごとく行はれずしてやみぬるは、まことにおしむべく、なげくべきのかぎりなりけり、