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太昊古暦伝

好尚雲、またの稿に、日月星辰復始甲寅元とは、歳月お甲寅に起せる耳に非ず、日時の元おも甲寅より始めしこと更に論ひ無き物にて、謂ゆる作暦の元年は、甲寅歳の甲寅月の朔旦立春やがて甲寅日にて、其晨寅時おやがて甲寅に定めしこと疑無くなむ、〈其は日月星辰と有る星は、即歳星お雲ひ、辰は即時おいひ、月とは孟春正月に雲ひ、日とは其朔旦立春お雲る語なるお以て知べし、若然らずとしては、日月星辰復始甲寅元と雲こと、総て意なき語とぞ成るめる、〉日行一度而歳有奇四分之一は、既に上に説たるが如し、故四歳而雲々とは、四歳の日数、すべて千四百六十日と、彼八分づゝ四お合すれば、四八三十二分にて一日なる故に、千四百六十一日にて余分なし、之お復合とは雲り、故舎八十歳而復故とは、まづ八十歳は四歳お二十合せたるにて、舎とは歳星の舎りお雲ひ、八十舎して八十歳お為すが故にかく雲り、此日数凡二万九千二百日と、かの八分づゝの余分六百四十分あり、此おまた日に直せば、二十日にて余分なし、此お復故とは雲り、然れば一紀七十六歳と定めしは、是八十歳の四歳お減じたる数なるが、即四歳づゝ十九お積みて定たるにて、是ぞ古暦法の大要なりける、〈此に就て按ふに、既く見たりし天地二球用法記、また近頃見たる遠西観象図説など雲ふ物は、共に西洋の天文書お訳せる物なるが、其書等に拠るに、彼国辺に用ふる暦法二様あり、其古なるは、我が崇神天皇の五十三年丙子歳に当りて、郎摩国に由利安と雲へる首の在しが立たる法にて、一年お三百六十五日と余分六時とせり、其六時と雲ふは、彼国にては、一日お二十四時に立たれば、一昼夜の四分一にて、昼夜お十二時と立たる諸越の暦法に四分日之一と称する八分に当れり、斯て其法、三百六十五日六時のうち六時お除きて、全日三百六十五日お一歳として之お平年と雲ひ、其余数の六時お積こと四年にして一日と成るお、第四年の日数に加へて三百六十六日となし、其年お閏年と雲ふ、是お以て第四年に必ず閏年あり、故は由利安が始めし暦法なる故に由利安年と称して、千六百余年がほど行はれき、是古法なり、然に我が天正十一年癸未歳に当りて、宜礼碁利と雲ふ者ありて、其暦法お攺めて新法お立たり、其は詳に天度お測り年月お推歩するに、太易の躔度、暦面の節気に先だつこと千六百年余の間に、十余日の差お生ぜり、是に因りて太易の躔度に巨細に測れば、三百六十五日六時四十九分あり、六時四十九分の六時は、既に雲ふ如く、諸越の暦法に謂ゆる四分日之一にて八分なり、四十九分は、西洋の一日お二十四にせる一時お六十分とせる四十九分なれば、諸越また皇国の一時の半時足ずなり、然るに其三百六十五日お平年としては、其余数お積こと四字にして一日に満ざる故に、千六百年余お経る間に十余日の不足お生たり、是に依て、四年一閏の法お止めて四百年めに一日になほ半時余り足ざる時刻お強ひて一日に立て、閏年と為たり、此法に拠ときは七千二百年にして、一日の不足お生ずれども、由利安の暦法一千六百年にして十余日の不足おなすに比すれば、歳実お失ふこと少し、於蘭陀にては此暦法お用ひて、宜礼碁利年と称する由見えたり、此由利安が暦法いと能く今の古暦に似たるは、其もと同く太古に神真の伝へし古法なるべし、此に比べては、宜礼碁利が暦法は精に似て却りて迂なり、蘭学おまた無き物に好まむ人など、此等の言お聞むには、決めて訝しみ思ふべけれど、我には尚深く思ひ得たる定説有れば如此は雲ふなり、〉