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本朝梵暦師資系譜
本朝梵暦の起源お勘るに、文化以前は之れお雲ふ者なかりき、或は之れお雲ふも、一箇の私見お以てするのみにして、吾仏の須弥説によりて、之れが確論お立てざるゆえに、別に一家おなすものなしと、然るに文化年間に至り、普門律師なるものあり、西洋天文地理の説の、後来仏教に巨害おなさんことお測り、大蔵お閲すること殆んど卅年、是に於て日月横旋、四洲異四時の論お立て、数書お著はせり、暦象編、実験須弥界説、須弥山儀銘、及和解須弥界暦書等は、皆師が述作に係る、其大意は下に至りて略論すべし、師は宝暦四年に生る、因幡国の士族山田某の子なり、七歳にして出家し、戒お豪潮阿闍〓に受け、諱は円通、字は珂月、無外子と号す、成年の後、洛東積善院に住し、晩に東都に至り、三縁山内の恵照院に住す、天保五年九月四日寂す、時に年八十一なり、師が所立は、大蔵中より、阿毘曇論日月行品お選出し、須弥四洲異四時の説お立て、日月横旋の義、并に縮象展象の理お談ず、其展象に於ては、日月横旋にして、須弥は中央に卓立し、日月その半腹お摎るといへども、是れは天眼の所見にして、肉眼に応ぜず、肉眼の所見は、縮象にして、日月地下に出入の象お見る、故に数は展象に原くといへども、眼見に相応せしめんが為めに、種々の表お設け、遂に須弥暦等お述作せり、具さには其書に就て見るべし、概するに事創業に係るお以て、為めに数理も甚だ詳かならずと雖も、無数の艱苦お歴て、文政四年、遂に官許お経て、仏暦授与自由の権お得るに至れり、