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有徳院殿御実紀附録
十五
数学は、寄合建部彦次郎賢弘(○○○○○○○)とて、名誉の算学者ありしお、小納戸浦上弥五左衛門直方薦め申ければ、しば〳〵御垂問あり、ほどなく精微おきはめ玉ひ、さらに聖慮おくはへ玉ひしことゞもありしかば、誠に神明の御方略、凡慮の及ぶ所にあらずと、彦次郎賢弘もふかく感服し、後にはかへりて御教諭お蒙りしとなり、しかるに天文暦術は、民に時お授るの要務なればとて、これにも専ら御心お用ひ玉ひ、和漢の暦書はさらなり、阿蘭の説までもひろく御穿鑿有けるが、当時用ひらるゝ貞享の暦法は、疎脱多く、誤も又少からざるにやと、天文方澀川助左衛門春海が弟子、猪飼文次郎某に御尋ありしに、文次郎其わざにいたりふかゝらざれば、答へ奉る事あたはず、かさねて彦次郎賢弘にとはせ玉ひしに、彦次郎賢弘、京の銀工中根条右衛門玄圭(○○○○○○○○)といふお推挙せり、よりて条右衛門玄圭お府に召れ、御質問どもありしに、かれが申所ことごとく明白なりければ、大に御旨にかなひ、そのころ唐船に、暦算全書といへる書おもたらし来りしお、条右衛門玄圭に訳すべしと命ぜられしに、やがて訳本一通お進らせける、しかるにこの書は、別に全書ありし其中より抄録したるものなれば、其全書おみざらんには、本意は明弁しがたしと玄圭申しければ、やがて其全書おもち来るべきよし、長崎の奉行萩原伯耆守美雅もて唐商に令せらる、はたして暦算全書は、西洋暦経のうちより抄録せしものなりしかば、西洋暦経の書本おもて参りぬ、これおも条右衛門玄圭にみることおゆるされしに、これにたよりて、律襲暦〈一名白山屠〉おつくりて奉れり、その頃条右衛門玄圭、凡暦術は唐土の法みな疎漏にして用ひがたく、明の時に、西洋の暦学はじめて唐土に入し後、明らかになりし事少からず、本邦には耶蘇宗お厳しく禁じ玉ふにより、天主または李瑪竇などの文字ある書は、こと〴〵く長崎にて焼捨るおきてなれば、暦学のたよりとする書甚だ乏し、本邦の暦学お精微にいたらしめんとの御旨ならば、まづこの厳禁おゆるべ玉ふべしと、建議せしといへり、