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天朝無窮暦

さて皇朝にて、中星暦といふお造らしめて、八十二年に一度奏進せしめ給へる事は、何なる暦と雲こと詳に記せる物は見ざれど、赤県州の歴代の暦志お見るに、晋の虞喜といふ者、始めて天お以て天と為し、歳おもて歳と為し、差お立て、其変お追ひ、五十年に一度お差ふと考へしお、宋の何承天は、百年にして一度お差ふと定め、〈何承天は、かの元嘉暦の撰者なり、歳差の説は斯の如くなれど、其代の暦志に、何承天曰、漢代以昏明中星課日所在、日之所在雖不可見、月盈則蝕、必当其衝、以月推日、躔次可知、捨易而役心於難、臣所不解也、尭典雲、日永星火以正仲夏、今季夏則火中、又宵中星虚以殷中秋、今季秋則虚中、爾来二千七百余年、以中星撿之、所差二十七八度、則尭時冬至日在須女十度左右也と有るお思へば、此人も尭典の中星は信けざりけり、〉然て隋の劉焯、その二家の中数お取りて、七十五年に一度お差ふと定めたりしお、唐の一行が大衍暦に至りて、八十三年に一度お差ふと定めたる由なり、〈猶是らの外に、其暦志どもに、一度お差ふ年数お、或は四十五年と雲ひ、或は六十余年といひ、或は六十六年、或は六十七年、或は六十八年、或は七十八年、或は四十年、或は百八十六年など雲ひて、互に相是非しつゝ、紛々聚訟、すべて読むに堪ざる迂説等なる中に、暦家自北斉張子信始知歳法、以古暦推之、凡八十余年差一度、月令 に 日在某宿、比尭時則已差矣雲々と雲ひ、日右転、星左転、約八十年差一度雲々と雲へる説あり、一行が八十三年といふ説は、是お折衷して得たる測量なるべし、〉然れば皇朝の中星暦は、此方の博士の、そお再折衷して、八十二年に一度の差と測量して、歳月の暦とは別に、是暦お奏進せるにぞ有べき、然れども是なほ未その中分お測量し得ざる物なり、太昊古暦伝に出せる、近世の測量お見て知るべし、