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玉襷

天皇の天の下治め給ふと撰びて、定しめ給へる暦神の、幸災ある事などに於ては、決めて其験ある事なり、此によき因なれば、少か其由お雲むに、謂ゆる八将神の第一に、大さい某方、此方にむかひて万よし、但木おきらずと出し給ふ大さいは、大歳にて、其年の君位に立る方なり、抑暦法の事は、我が神世より、謂ゆる真暦の外に、皇国固有の御暦法ある事は、己詳かに考へ定たる説あれど、此処に尽し難ければ、此は暫く措て、〈別に委く記せる物あり、就て見るべし、〉今は唐土の暦書等の説に依りて考ふるに、歳星(○○)またの名は、木星(○○)の精気の建し宿る方位なるが、〈此方に向ひて、木お伐らずと雲ことは、大歳星やがて木星なればなり、〉衆殺の王たる方とて、何事も此方に向ひては行ふべからぬ凶方の第一と立て、其祟いと厳なる事と聞ゆるお、皇朝の暦説、もと唐土により給ひては有れど、右の如く此方位に向ひて、万事お行ひて、吉と定められたる事は、いにしへ皇朝にて、彼暦説お用ひ始め給ふ時しも、年中の君位たる方の、然る凶方なるが、宜からぬ事なる故に、誰にまれ其事に預れる人の、天皇に白せるより、皇国には然る凶事おな行ひそと、吉方に祭り替給ふ事と見えたり、然らでは、始より唐土により給へる暦説の、彼に異なるべき由無ればなり、〈近来難波に、松浦東鶏といふ日者ありて、聖武天皇の天平年中に、吉備公の然は祭り替たる由雲へり、其は暦博士加茂家などの伝と聞えたり、此お吉備公のわざと雲ことは、其謂なきに非ず、其は牛頭天王暦神弁に委く雲ふお見べし、○中略〉斯て其現人神の授け給ふ、暦説の謂ゆる天道、天徳、歳徳、月徳、金神、八将神などの暦神はも、其元は唐土より説起せる事にも有れ、また其原由お探ぬれば、我が皇神たちの、最古く彼国の古に伝へ置給へる事なるお、〈此由は、赤県太古伝に委く考へ記せれば、今更に雲はず、〉当時はじめて唐土の暦法お用ひ給ふ時しも、其原の由来おば知食してや有けむ、知看さでや有けむ、其は今知べからねど、幸災の事実に徴して、慥(まさ)しき験ある事のみお択びて、彼よりは甚く易簡に、暦神の方位お立られ、其が中に、大凶方なる大歳お、大吉方に定め給へる抔お思ふに、総て凶おば解(なご)め祭りて、彼よりは薄からしめ、今世までに暦に記して、分布し授け賜ふにぞ有ける、〈彼国の暦法よりは、甚く凶方位の数お減じて、吉方位お多く取給へること、今行はるゝ唐土の暦書陰易書の類ひの、各々某々に凶方位の多かるお皆集めて、年月日時に配し見よ、一年にわづかに数日ならでは、用ふべき日は有まじく、其に比べては、皇朝より授け給ふ御歴法の、易簡にして吉方位の多きお思ふべし、其は今の清国にて授くる時憲暦と、皇朝の暦とお引合せ見ても知なむ物ぞ、因に雲ふ、桃園天皇の宝暦五年乙亥、新暦お天下に頒布し給ふ、其暦本の首に、記させ賜へる事三個条あり、其第一に、暦面にいむ日は多しといへども、吉日は天しや、大みやうの二のみにて、世俗の日取足がたかるべし、仍て今天恩、母倉、月徳、三の吉日お記して、知しむるものなりとあり、外二条はこゝに用なければ記し出ず、同六年の頒暦に、去年新暦面に記出す所の三け条、自今永く用て異る事なし、重て断り示に及ばずとも宣へり、こはいと近き事なるが、彼これ思ひ合せて、吉暦ともに、天皇の御定めによる事なる由お悟べし、〉然れば其御正朔お奉ずる国民としては、己が私のさかしらお用ふること無く、一向に毎年の暦に載し授け給ふ、吉方、凶方、吉日、凶日の御諭しお受賜はりて、厚く信じ用ひて、後に渡れる漢籍どもに載し伝ふる吉凶の、暦法にわたる説どもは、聞起(たつ)まじき事にこそ、〈然るお今の俗に、家相方位お講ずる徒など、漫にかの新渡する暦書陰易書どもに依りて、彼繁蕪なる吉凶方位、年月日時の説お和解し弘めて世お惑はすは、元より朝廷に御心ありて、用ひ給はぬ事おしも、私に世に出すにて、賊盗律に、凡造妖書及妖言遠流、伝用以惑衆者亦如之とあるに、当れる罪科なりとは知らずやも、〉