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草茅危言

暦日之事一暦は土御門家の司職なれば、外人の与り知て妄に議すべきには非ざれども、華域の暦お伝へ見るに、さして替りたることもなし、必竟我邦の暦は、華暦お受て作りたるものゆえ、今その本について議すべし、総じて暦の肝要は、月の大小おたて、干支おわりつけ、二十四気お配分し、日食月食おしるし、土用の入、八十八夜、二百十日おしるすなどの数項に過ず、其外は一切無用に属す、八将軍など、いつの時より書出せることにや、暦法にかつてあづかるものなし、多分道士の方の名目にてもあらんか、一向無稽の妄誕なり、世に中段と称する建除の名は、暦法に古く見えたることなれども、是又甚だの曲説にて、其外下段と称する吉日凶日、みな言に足らざることヾもとす、又方角の開塞お雲こと大に世間の害おなす、妄誕なり、さなきだに天下愚昧の民、惑やすくして暁しがたきに、暦書にしかと書あらはし示すゆえ、ます〳〵惑の深くして、一向に暁されぬことになりゆきけり、嘆ずるに余りあることなり、先王の四誅の一つに、鬼神時日お仮て以て衆お疑がはすは殺すとあり、今の暦書の八将軍金神は、鬼神おかり、中段下段は時日おかり、皆以て衆人お疑惑せしむるの猶なれば、まさしく先王の誅お犯したるものなり、実に深く制禁お加へ、大に暦書お改めたきものなり、〈○中略〉一正朔は、先王の制にて、唐虞の際、義和の暦象よりこのかた、王政の一重事たり、周室に、暦お諸侯に頒ち、国々にて告朔の礼あることなど、民事お重んずるの至要たり、我邦古代のことは、くだくだしく雲にも及ばず、今日に至り土御門家お以て、これお統られ、関東にて司暦の御設けも、土御門の門人として、事お行はせらるれば、これ以て天下御代官の御心にて、元より間然なかるべき御事なるべし、但し伊勢暦、三島暦など雲類、やはり関東司暦の命お受て作ることなれども、其地にて各自に造り出して、天下に布事ゆえ、もし愚の所謂浄潔暦の行なはるヽ時節も至らば、他より出る暦お、一切に堅く制して、旧お舎て新に就しむべし、官暦いか程浄潔になりても、他暦に旧態存すれば、世間にては、却て官暦お疎略とし、他暦お詳密と思ひて、宿惑つひに解べからず、何とぞ蜻蛉洲中に、日の吉凶、方の開塞、此方木おきらず、よめ取らずなどの妄誕、地お払ひて絶果るやうにありたし、薩摩は昔より別に推歩して、一国に用る暦お造らるヽ由なり、是は極西南の地にて、北極出地度、昼夜の刻限、日食の数など、少々の差異もあるゆえのことなり、猶これも土御門の徒弟として、別に門戸お立るにてもなけれども、侯国にて造暦あることは、いかヾしきことなり、その上さきに、薩暦お閲せしに、昼夜刻限の外は、何も官暦と替りたることなし、是まづ空疎なることなり、さて日の吉凶の名目同じからずして、その数も甚多きやうに覚えたり、是は又拘滞の益甚しきものにて、人の惑お生ずるも更に多く、別して無用の長物なるべし、猶も一国ぎりにて外へ伝播はなき暦のことにてはあれども、同じく土御門より受たる法に、異同あるべきやうなし、何とぞ是お以て禁切の方あるべきものにや、