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譚海

暦は、江戸にて出来る也、天文役所にて出来、封じて官へ奉る、段々執政へ達し、夫より封のまゝにて、土御門家へ遣され、土御門にて開封有、中段下段へ、陰陽家の吉凶お加筆し、板行せられ、其板本お、土御門より官へ奉り、夫より町奉行所へ下り、夫より町年寄年番のものへ給り、夫より暦問屋十一人のものへ給り、清書開板、官のしらべおへて、さらに商売免許の旨お得、あきなふ事也、写本暦と申は、貞享元年以来、江戸天文方に而推歩し、年々大小節気日蝕月食、其外暦法にて考し分相認、京都幸徳井陰陽助方へ遣し、上中下段吉凶附お加へ、暦面之通に書写し、江戸へ指下す、天文方に而改之上、又々幸徳井方へ遣、相違無之間、大経師へ写本暦彫刻被申付候様申達候、出来之上、幸徳井方にて、一応校合、相違も無之候得ば、其段申渡、写本暦摺立、下役包紙面添封し候て、彼地町奉行所へ差出す、則宿次にて、奉行手帖添、御城へ到来す、御目付衆より差越さるゝなり、但宝暦甲戌元暦御用ひの間は、土御門家著述故、写本暦彫刻の事も、土御門家のはからひなりしよし、