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類聚名物考
時令二
春秋分昼夜分 童子問〈木下菊所〉春分秋分之日、多夜如何、朱翼曰、日以百刻為度、昼長則夜短、夜長則昼短、地中論雲々、又曰、日未出地二刻半、而地上已明、日已入地二刻半、而地明尽、故常多夜五刻、子初々刻、初二刻、初三刻、初四刻為夜子時、属本日管、子正一刻、正二刻、正三刻、正四刻為日子時、属次日管、愚按、是以一時為八刻、以半時分之、人之死生之日期、亦以之可論定也、琅〓代酔編雲、余嘗謂、子丑二時、倶属今日之夜、寅時乃属明日之旦、引穀梁伝注疏雲々、子丑二時、凱不当属前日乎、按、朱翼之説、今之亥半時以後為子時、然為夜子時、属本日管也、自今之子時半時、為日子時、属次日管、則与今所定之昼夜、恰相同也、張鼎思説難従、鼎思引劉世節説、以今夜之子時、即為来日之初也、百刻六千分也、按、春分秋分日多夜五刻也、広義雲、毎時八刻二十分、按、一刻六十分、一時五百分、中華日時者自今之亥半時為子刻也、小学紺珠〈宋王応麟〉百度百刻、学記雲、百度得数而有常、正義昼夜百刻、十二時毎時八刻二十分、毎刻六十分〈周礼綯義〉今案に、此等の説に依て見れば、今の定めは夜九時お打しより、即子の初として、明日の初とす、九打ぬ前おば今日の内とするなり、又西土の定めは、夜の四時半よりは、もはや明日の分として、是お子の初とするなり、此方にても、昔の貞享暦の定めと、今とは異なり、