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燕石雑志

更鐘〈更は漏刻の名なり、開元遺事宮漏有六更、君王得晏起、〉時の鐘鼓おうつこと、和漢いづれの時よりといふよしお詳にせず、事物紀原雲、更点起於易繫九時重門擊柝之説、自黄帝時也、といへり、按ずるに、易繫辞下伝雲、重門擊柝、以待暴客、蓋取諸予と見えたり、柝は拍子木也、これは都城の門子暴客の来るお見て、拍子木お擊ことゝ聞ゆ、更点には異なからん歟、六更の事、宋の洪邁が俗考に見えたり、左に抄録す、俗考雲、漢書候士百余人、五分夜擊刀斗〈解按、正字通刀字下雲、李広伝刀斗刀註、古者軍有刀斗、彼此矛盾刀斗之、刀音貂、並改刀為刀、不知史伝有刀斗無刀斗、不必読刀也、〉自守、師古曰、夜有五更、故分而持之、唐六典大史門典鐘、二百八十人、掌鐘漏、五五相逓凡二十五、而及州県更漏、皆去五更後二点、又并初更去其二点、首尾止二十一点至今仍之、故曰一更三点禁人行、五行三点放人行、宋大祖以鼓多驚寝、遂易以鉄磬、此更鼓之変也、或謂之鉦、即今之雲板也、衛公兵法曰、鼓三百三十三槌為一通、角吹十二声為一畳、鼓止角動也、司馬法曰、昏鼓四通為大〓、〈〓疑〓偽〉夜半三通為晨戒、旦明三通為発餉、今早晩各止三通、其鐘声則一百八撞、以応十二月、二十四気、七十二候之数、この説によれば、更点は秦漢以前既にこれあり、或は鼓おもてし(○○○○○○○)、或は鐘おもてし(○○○○○○○)、或は鉦おもてす(○○○○○○○)、衛公の鼓は三百三十三槌、宋朝の鐘声一百零八、天朝の鐘声七十二、その十二時に各三〈俗にすて鐘といふ〉お加え、合して一百八となるときは、その数宋の鐘の声に同じ、〈いづれのおん時よりしかるや、尋ぬべし、〉時の鐘の事、大玄経に見えたりと南留幣志にいへり、亦無門関の注に、懼阿含経お引て、時の鐘の事お載たれど、此には証がたし、舒明紀に、天皇八年己丑朔、大派王謂豊浦大臣、群卿及百寮、朝参已解、自今以後卯始朝之、巳後退之、因以鐘為節、然大臣不従、といふ事見えたり、しかれどもこのおん時にはいまだ行れず、天智天皇十年に、黄書本実水泉お献、同年の夏四月はじめて漏剋お用ひ、鐘鼓お動し、候時お打せらるゝよし日本紀に見えたり、時の鐘うつ事は、天智の御宇よりはじまれり、〈日本紀の文は末巻に抄出す〉更鼓の事、くはしくは延喜式に見えたり、亦夜行翁のこと、本朝文粋に見ゆ、拍子木は火危木なりと、奈留辺志にいへり、夜行翁は、今の夜巡といふものにおなじ、また中葉にいたりては、昼は貝お吹けるにや、〈○中略〉近曾夜話に、一友人とこの事に及びしに、今の時の鐘の数(○○○)に、卯と酉お六つとして、五つ四つ九つ八つ七つに至り、亦六つにかへる、この数は、何に据れるにやと問れき、こは揚子雲が大玄経に本づきて律呂の数なり、又おのづから九々にもかよへる歟、九は数の止なり、されば古人も、数は一に生じて九に成るといへり、且九は陽の数なり、よりてこれお日中午に配す、午も火にして陽なればなり、さて亭午と夜半の二六時中の正中に当て、九おもて左右にわり出すに、九々の数によれるならんと答き、かゝる事お説んは、いと〳〵おさなき所為なれど、雑書などいふものにも記せるお見ざれば、童蒙の為に左に註す、〈亦結眊録にも説あり、これも暗合の事なり、追考の条下にいふべし、〉ふるき草紙物語に、子二つ、子四つなどいふ事見え、今俗も丑三つなどいふは、子の二刻、丑の三刻なり、しかるお世俗は、隻子の刻、丑の刻などやうに唱へて、一時の事にこゝろ得たるは誤なり、三正俗解に、正初更点の弁あり、正とはその時の正中なり、世俗の九つ時、八つ時といふが如し、初とは、前の時と、その時との中間なり、〈○図略〉世俗の九つ半時と唱るは、即八つ時の初なり、その初より正に至る間は半時にして、彼百の刻四箇と六分之一にあたれり、正より次の初に至る間も、またかくのごとしといへり、事長ければこゝに略す、