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当世武野俗談
平沢左内平沢左内と雲卜者あり、其以前は柳原和泉殿橋向新道通りに、かすかなるくらしゝて、辻などへ出て、手の筋お見、かた〴〵其日細き烟りお立たるが、享保元文の頃より不計はやり出して、今占の一流平沢流と雲は、片腹いたきいやきな奴なり、扠文盲千万の匹夫なり、〈○中略〉或時去る歴々衆へ招かれ、左内へ其御方ののたもふは、此箱の中へ入たるもの有、占て見給へと有ければ、左内占て申けるは、箱の内に有とも、正敷生類なり、何の役にも立物にてなし、国土のつひへ取るに足らぬものなりと、子細らしく申けり、其御方大に感じ笑せ給ひ、是はよく当りたり、何の役にもたらぬ取に足らざる馬鹿者、名お書て入置きたり、是見られよと、箱お明給へば、紙に平沢左内と書て入給ふ、是は一生平沢左内が占の大あたりなり、