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太平記
十一
諸将被進早馬於船上事都には、五月〈○正慶二年〉十二日、千種頭中将忠顕朝臣、足利治部大輔高氏、赤松入道円心等、追々早馬お立て、六波羅已に令没落之由、船上へ奏聞す、依之諸卿僉議ありて、則還幸可成否の意見お被献、時に勘解由次官光守、諫言お以て被申けるは、両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等、猶畿内に満ちて勢ひ京洛お呑めり、又賤き諺に、東八箇国の勢お以て日本国の勢に対し、鎌倉中の勢お以て東八箇国の勢に対すといへり、されば承久の合戦に、伊賀判官光季お被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久く武家の権威に落ぬ、今一戦の雌雄お測るに、御方は才に十にして其一二お得たり、君子不近刑人と申事候へば、暫く隻皇居お被移候はで、諸国へ綸旨お被成下、東国の変違お可被御覧や候らんと被申ければ、当座の諸卿悉く此議にぞ被同ける、而れども主上猶時宜定め難く被思召ければ、自ら周易お披かせ給て、還幸の吉凶お蓍筮に就てぞ被御覧ける、御占、師の卦に出て雲、師貞、丈人吉無咎、上六、大君有命、開国承家、小人勿用、王弼注雲、処師之極、師之終也、大君之命、不失功也、開国承家、以寧邦也、小人勿用、非其道也、と注せり、御占已に如此、此上は何おか可疑とて、同二十三日、伯耆の舟上お御立有て、腰輿お山陰の東にぞ被催ける、