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南畝莠言

足利学校易の事足利学校にある所の帰蔵抄は、易の王弼注お、片仮名にて講義お書しものなり、首に周易要事記といふ篇あり、諸式お細に誌し、和漢易学伝来の事など委載たり、尾巻の末に、文明丁酉十月二十一日始之、十一月二十一日終之、滴翠亭子としるし、莽万と雲篆印あり、其講義の中に、間々当時の事お説し所あり、需の上六の条に雲、鎌倉に易お聞時、我師おば喜禅と雲たぞ、其師おば義台と雲たぞ、其喜禅の語られたは、我易お伝る時に、鎌倉持氏の乱にわうぞ、其時揲蓍、天下の乱お占ふ時、この需の上六にわうぞ、有不速客三人来雲々、自爾以来、不見其可否ぞ、後に鎌倉のなりお御らんぜよと雲はれたり、又其後、重氏出頭の時、足利において易お講ずる時、持氏の時の筮のことおさたするに、其占符節お合せたるが如し、其故は、重氏出頭、兄弟三人不速来て重氏お扶たり、弟は美濃の土岐に養せられて、雪の下殿と雲た一人也、聖道であつたぞ、又の弟は、僧が一人あつたぞ、又重氏の一の兄が美濃にあつたぞ、其は俗人ぞ、以上三人来て、重氏お扶たぞ、重氏つヽしみて居られたによつて貞吉也、今まで無為なるは奇特也、易お信じて蓍おとらば、違ふことはあるまいぞとあり、此のたぐひなりと新楽閑叟の話なり、