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源平盛衰記
二十六
馬尾鼠巣例并福原怪異事此入道〈○平清盛〉の世の末に成て、家に様々のさとし有き、坪の内に秘蔵して、立飼れける馬の尾に、鼠の巣お食て、子お生みたりけるぞ不思議なる、舎人数多付て、朝夕に撫払ける馬に、一夜の中に巣お食、子お生けるも難有、入道相国大に驚き給ふに、陰陽頭安部泰親被尋問ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故おば不申けり、内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既に顕れたり、近くは入道の薨去、遠くは平家都に安堵すべからず、如何にと雲に、子は北の方也、馬は南の方也、鼠上るまじき上に昇る、馬侵るまじき鼠に巣お作らせ子お生せたり、既に下剋上せり、されば子の北の方より、夷競上りて、馬の南の方におはする、平家の卿上お、都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ、され共入道の威に恐て、隻重き御慎と計申たりければ、まづ陰陽師七人まで様々祓せられけり、又諸寺諸山にして御祈共始行あり、件馬は相模国住人大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進たり、黒き馬の太逞が、額月の大さ白かりければ、名おば望月とぞ申ける、秘蔵せられたりけれ共、重き慎と雲恐しさに、此馬おば泰親にぞ給ひける、昔天智天皇元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣お造、子お生けり、御占あり、重き慎と申けり、さればにや世の騒も不斜、御門も程なく隠させ給ひにけり、日本紀に見えたり、