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源平盛衰記
十五
相形事抑相者、洽浩五天之雲洪、携九州之風、五行結気、成膚成形、四相廩運、保寿保神、依之月氏映光、教主釈尊、屡応其言、日域伝景、太子上宮、剰顕其証、一行禅師者、漢家三密之大祖、円輸満月床傍、審一百廿之篇章、延昌僧正者、我朝一宗之先賢、界如三千之窻内、省七十余家之施設、内外共砺此術、凡聖同弘斯業、なじかは違べき、されば昔登乗と申相人ありき、帥内大臣伊周おば、流罪相御坐と相たりけるが、彼伊周公の類なく通給ける女房の許へ、完平法皇の忍て御幸成けるお驚し進せんとて、蟇目お以て射奉りたりければ、被流罪給へり、又太政大臣頼通、宇治殿、太政大臣教通、大二条殿、二所ながら御命八十、共に三代の関白と相し奉たりけるも、少も不違けり、又聖徳太子は御叔父崇峻天皇お横死に合給べき御相御座と仰けるに、馬子の大臣に被殺給けり、又太政大臣兼家、東三条殿四男に、粟田関白道兼の不例の事おはしけるに、小野宮の太政大臣実頼御訪に御座たりければ、御簾越に見参し給て、久世お治給べき由被仰けるに、風の御簾お吹揚たりける間より奉見給て、隻今失給べき人と被仰たりけるも不違けり、又御堂馬頭顕信お民部卿斉信の婿にとり給へと人申ければ、此人近く出家の相あり、為我為人いかヾはと被申たりけるが、終に十九の御年出家ありて、比叡山に籠らせ給にけり、又六条右大臣は、白川院お見進て、御命は長く渡らせ給べきが、頓死御相御坐と申たりけるも違はざりけり、さも然べき人々は必相人としもなけれ共、皆かく眼かしこくぞ御座ける、況や此少納言惟長も、目出き相人にて、露見損ずる事なし、されば異名に、相少納言とこそいはれけるに、高倉宮おば何と見進たりけるやらん、位に即給べしと申たりけるが、今角ならせ給ぬるこそ、然べき事と申ながら、相少納言誤にけりと申けり、