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平治物語

信西出家由来并南都落附最後事去程に、通憲入道お被尋けれ共、行衛お更に不知けり、彼信西と申は、南家博士長門守高階経俊が猶子也、大業も不遂、儒官にも不被入、重代にあらざる也とて、弁官にもならず、日向守通憲とて、何となく御前にて被召仕けるが、出家しける故は、御所へ参らんとて鬢おかきけるに、鬢水に面像お見れば、寸の首剣の前に懸て空しくなると雲面相あり、驚き思ける比、宿願有に依て熊野へ参りけり、切目王子の御前にて、相人に行逢たり、通憲お見て相して曰、御辺は諸道の才人哉、但寸首剣の先に懸て露命お草上にさらすと雲相の有は如何にと雲て、一々に相しけるが、行末は不知、こしかたは何事も不違ければ、通憲も左思ぞとて歎けるが、それおば如何にして可遁と雲に、いざ出家してや遁れんずらん、それも七旬に余らば如何あらんとぞ雲、扠こそ下向して御前へ参、出家の志候が、日向入道とよばれんは、無下にうたてしう覚候、少納言お御許し蒙り候はヾやと申ければ、少納言は一の人も成などして、無左右とり下さぬ官也、如何あらんと被仰けるお、やうやうに申て御許されお蒙り、軈出家して少納言入道信西とぞ雲ける、