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源平盛衰記
三十四
明雲八条宮人々被討附信西相明雲事天台座主明雲大僧正は、馬にめさんとし給ひけるお、楯六郎親忠、能引て放矢に、御腰の骨お射させて、真逆に落給ひ、立もあがり給はざりけるお、親忠が郎等落重なつて、御頸おとる、〈○中略〉後白河院御登山の時、少納言入道信西、御伴に候けり、前唐院の重宝、衆徒存知なかりけれ共、信西才覚吐などしたりけり、其次に、明雲僧正我にいかなる相か有と御尋あり、信西三千の貫首、一天の明匠に御座す上は、子細不及申と答、重たる仰に、我に兵定の相ありやと尋給ければ、世俗の家お出て、慈悲の室に入御坐す、災夭何の恐か有べきなれ共、兵定の相ありやの御詞怪く侍て、是即兵死の御相ならんと申たりけるが、はたして角成給ひけるこそ哀なれ、或陰陽師の申けるは、一山の貫長、顕密の法灯に御座す上は、僧家の棟梁いみじけれ共、御名こそ誤付せ給ひたりければ、日月の文字お並べて、下に雲お覆へり、日月は明に照すべきお、雲にさへらるヽ難あり、かヽればこの災にもあひ給ふにや、