[p.0633][p.0634]
西海雑誌
霧島が岳は、日向大隅薩摩の三箇国に跨り、〈○中略〉其大隅の方なるは西霧島と雲て、頗大社にして、何時の世より太敷ますとは知らざれども、空海一度錫お入られし後は、華林寺聞錫杖声院と号て、今は密宗の精舎となりにけり、予天保七申歳、登山して帰るさ、此寺に宿りしに、方丈五峯和尚予が遠方より来遊お愛て、いと叮嚀に饗し、相見お免されしに、頗道徳堅固の僧にして、げに如此霊地に掛錫なしたまふことわりと覚えき、〈○中略〉種々山中の奇お譚聞せたまふ、其中にも実に奇なるは、当寺に年久しく仕ける下僕五助と雲るものあり、日々山中に入て樵けるに、時として一の桃林に到る事ありけり、さして寺より遠くとも思はず、又近しとも決し難きが、此林に到れるに、二八ばかりよりまだ三十歳に足らぬ、みめよき女子ども、種々のうつくしき衣服にて遊び戯れたまひけるが、其年長と見えて、別て衣服もうつくしく、異様なる婦人、五助お呼て、世の中の事どもお尋問つゝ、桃お与へて雲らく、此桃お食する時は、不老長生にして、我等が如く何時迄も、歓楽に月日お送る身となるべし、然し必此林より外へ持出る事なかれ、若我が言お犯す時は、其詮なしとぞ深く戒め与へき、五助も始の程は其教お守りしに、後にふと過て其事お人に譚しかば、朋輩どもなどの雲には、それこそ狐狸の為に、馬糞など与へられしならめなど嘲られしかば、其くちおしさに後には仙女の戒お犯して、時々寺に桃お持帰て、朋輩又は沙弥扈従等へも勧めしかば、皆の者も漸に五助の言お信じ、我も伴れ行ん、誰も見んと五助の後に附て入るに、終日桃林に至る事お得ずして、空しく帰りぬれども、時ならざるに桃お持帰るにて、其言の虚談ならざる事お感じ、我も寿やせん、仙にならましなど雲ひ挙て、後には乞たりけるに、大さ尋常の桃より太く、又味も一しほ美なりとぞ、其五助と雲るは此者なりとて、予に引合されしに、至極質朴の者にして、其年お問ふに、六十余歳の由答けれども、顔色頗若く見え、未だ知命にもと思はれける、予其仙女の事お問しに、始には又もや仙女に叱られやせんとて答へざりしが、強て問しかば、漸にはなし出しけるに、桃お僕に賜り申せしは、いつも笠お被り申、鏡のやうなる物お首に掛て、種々の事お僕に雲聞せ賜り申せしが、此桃林の旦那にてあり申か、其うしろに桃お多く盆に入て持ち、又瓢お持ち、琴にても有申か、袋に入し物お抱き申せしもあり、其傍に遊べる女子等も、皆々首に守袋のやうなる物お掛申、何れも往昔の女子達にて有申せしか、其旦那の雲聞せ賜申せしは、女一人にて来らば、何時にても迎へん、必人に話すべからず、又遣す此桃も援にて賜申て、外へは持行なと、堅く戒申されしお、ふと僕人々より嘲らるゝおくちおしと思ひ、数度持帰り申て、人にも賜させ申せしなり、此桃お一顆賜り申置ば、持病の〓にて、屡々床にも著き申せしが、今は無病になり申、薬お賜り申事もなく、桃お賜させ申せし人々にも、誰一人其後病申せし人なしと、さすがに彼が国言の飾もなく譚するに、始は予も一概に信ぜざりしかども、其庫裏に在ける僧俗達の、我も賜申せしよ、彼も賜申されしと聞けるに、予も信まして、つら〳〵思ひけるに、往昔琳聖太子、此山に登仙せし事、種々の文にも見え、今も樵夫等の深山に入るに、時々は異様なる老翁に出逢ひ、又太子の乗馬と雲る地に、垂るばかりなる振髪のもの等、見し事も有と聞ける霊山なれば、其不思議なきにしもあらずと思ふ時から、此五助が奇事お薩藩の某〈関祐助、名広国、〉は、〈○中略〉一巻の書となし置たまひしと聞ば、其概略おのみ誌し置ものなり、