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医術は、疾病お除き生命お保全する所以の方にして、神代の時、大己貴、少彦名の二神、蒼生及び畜産の為に、療病禁厭の方法お定めしに起り、三韓支那の法お伝ふるに至り、其法益、精しく、近世西洋の医術お伝ふるに及び、其術大に進めり、
古者朝廷医薬の府お置き典薬寮と雲ふ、宮内省に隷し、頭以下の職員あり、而して医師、針師、按摩師、呪禁師、薬園師、并に各科の博士、生徒之に属せり、又中務省に内薬司あり、寛平八年典薬寮に合せらる、又諸官衙及び国衙にも医師医生ありて、専ら医療の事に従へり、徳川幕府亦医療のために、若干の職員お置き、奥医師、御番医師等の名ありき、
施薬院は、聖武皇后藤原氏の創立にして、其職封并に故贈太政大臣従一位藤原不比等の封戸等に依りて費用お弁ぜしが、後自ら朝廷の官衙と為り、長官は必ず藤原氏の人之に任じ、判官、主典、医師等其下に在りて、療病に従へり、是より前、厩戸皇子、施薬院、療病院等お設けて病者お救ひしことありしと雲へど、年代貌として其実お知るに由なし、又養老中藤原氏の氏寺なる興福寺に施薬院、悲田院お設け、中古北条時宗、極楽寺の僧忍性の説に従ひ、鎌倉に療病舎お開きしことあり、徳川幕府に至り、小川笙船の建議に由りて、小石川に養生所お開けり、是れ実に享保中の事にして、初は官医交番して、此に在勤せしが、後町医お以て之に代らしめたり、此他私人の施薬お為しヽものも亦乏しからざりき、
医術の学校は、往時典薬寮の内に在り、各科の博士其教授に任ず、諸生は皆一定の試験お経て成業に至れば、又考課お重ねて漸次に昇進する例なり、徳川幕府時代には享保年中、幕府特に古林見宜に命じ、之おして書院お開かしめ、都下の医生おして聴講せしむ、其後明和年中に至り、多紀安元又請ひて医術講究の場お開く、是れ即ち所謂医学館にして、終に幕府の公設と為る、幕府にては其末年に及び、又江戸及び長崎に洋方の医学校お建てたり、当時又諸藩に在りても、往々医学校の設ありしと雖も、医塾は甚だ寥々として隆盛なるもの少かりき、
我国中古に至り、丹波和気の二氏、世々医道の事に従ひ、多く名手お出す、故お以て此二流お本道と称し、医術の名家とす、後世は治療の方法に拠り、其伝統に、和方家、古方家、後世家、西洋家、折衷家の流派あり、而して疾病又は治方に由りて科お分ち、教習治療せしことも古くより之あり、大宝令には、体療、創腫、少小、耳目口歯、針、按摩、呪禁等の諸科あり、体療創腫は即ち後世の内科、外科にして、少小は今の小児科なり、又同令に女医あり、養老中に女医博士おも置きたれば、当時既に産科婦人科等の設けありしことお察るべし、
産科は徳川幕府時代に至りて、大に発達し、分娩に諸種の器械お使用するに至る、当時賀川子玄最も名あり、其流お賀川流と雲ふ、又痘疹に関して、当時別に一科お立つるものあり、即ち池田瑞仙等の名手ありて、功お奏せしこと少からず、種痘は数百年前より安房の一村落に行はるヽ所なりしが、延享中、支那人長崎に来りて、種痘の法お伝へたり、其法は並に天然痘の痂お採て、之お種うるものなりしが、尋で西洋の種痘法伝来するに及びて専ら牛痘お用いるに至れり、然れども其始に在りては、種痘往々其法お誤り、為めに世医の嗷々たるもの多く、一般人民の如きは、多くは之お忌避して種痘するものは甚だ少かりき、されど其末造に及びては、諸藩主の中にも其効お知りて牛痘の種子お徴するものあり、幕府も亦種痘所の設立お許し、遂に種痘医お蝦夷に遣すが如き状なりしお以て、此法幾くならずして、全国に普及するに至れり、
疾病の原因に就きては、古来種々の説ありて、或は神の心に出づと雲ひ、或は前世の悪業に出づるものもありと雲ひ、或は外来の毒物に原因すと雲ひ、或は人心の鬱滞に基づくと雲ひ、或は飲食より来ると雲ひ、或は腹中の臓腑より起ると雲ひて、其説一ならざれども、要するに多くは医術の未だ精しからざる時代の億説にして、信ずるに足るもの鮮し、解剖は、宝暦中、山脇東洋京都にて行ひしお始とすべし、前野良沢、杉田玄白等に至りて発明する所多く、遂に解体新書の著あるに至る、蓋し、人体内部の機関お知るは、医術上極めて必要なりと雖も、支那の道徳に在りては之お不仁の術と認め、和漢共に久しく此挙に出づるものなかりき、されど鍼灸の為めには、明堂図、銅人式等の設ありて、人体経絡お知るに便ならしめしが、解剖の開くるや、星野某、各務某等相尋で木骨お作り、大に斯学お資けたり、医療は通常薬餌に依ると雖も、或は鍼、灸、按摩、湯治等に依ることあり、或は腫物の膿血お去るに水蛭お用いる等の法もあり、而して又禁厭はまじなひと雲ひて、呪禁の方お以て疾病お退くること、神代より之れあり、此法は往時に在りては呪禁博士、呪禁師等の職員ありて之に従事し、医術の諸科と相対したりき、
疾病お予防するお養生と雲ひて、又医方の掌る所なり、病者お看護する方法は、上古多く聞えずと雖も、亦医術の管する所なれば、後世之お論じたるもありき、