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日本教育史資料
十九医学
時還読我書読録抜抄
医の学校は、中古兵燹より、其設廃替して建橐已来も、此事特り欠典に属せし故、玉池府君〈○多紀元孝〉深くこヽに概し、志お発して、これお草創し、藍渓府君〈○多紀元孝子安元〉よく其業お紹構して、遂には官庠となし玉ひて、洋々乎として、其盛なるお極るに至る、雪霜稍移り、耆宿凋落して、今は両府君経営の短矱と、其功労とお知るもの少し、仍て之お家牒に按じ、また之お叔父山崎菁園君に質して、茲に其概お挙て、子弟おして欽仰せしむ、抑々其綿蕞は明和二年乙酉の歳にて、官より神田佐久間町二丁目司天台の旧地お借せられ、始て医学館お造り、〈文化三年丙寅の大火後より、地お今の新橋に移されて、此地は秋田候邸の替地となれり、今は転じて旗下の士の邸となれり、〉 躋寿館( ○○○) と名お命ず、其結構は表門あり、〈外来の者此より出入す、和泉橋東の河岸より北へ入る、小街の行きあたりなり、〉裏門あり、〈館中常住する者是より出入す、即余が家の門なり、津候の表門と町家お隔て相対せり、〉中門あり、〈生徒往来、これより出入す、〉擬沜水并橋あり、講堂あり、〈内に神位あり、朝夕講説祭祀此所にて行ふと、〉客庁あり、〈諸生へ法令お掲告し、又は官医等貴客迎接所なり、〉食堂あり、〈諸生こヽに飲食す〉書庫あり、〈医書に限らず群書お置く〉薬園あり、〈時節お以て草木お培養す、〉学舎あり、〈常住の諸生お居らしむ〉遊息軒あり、〈外来の生徒こヽに於て講習の聞覆審す、上の間は官医、中の間は列国医員、下の間は市井医員と定む、〉都講学舎あり、教授学舎あり、〈都講教授の憩ふところなり、教授は句読お授く、〉此外総理等の居宅あり、館主は裏門の内に住す、教導の方は、本草経、素問、霊枢、難経、傷寒論、金匱の六部お、毎日輪講なさしめ、都講これお折哀し、其他の書おも論講し、更に経絡、緘灸、診法、薬物、医案、疑問六条の会お設け、各々の都講これお教導す、医案疑問は文辞に預り、其余は皆事に就て之お伝ふ、診法は、鄙賤の治お請ふ者お、都講先診して、其後諸生に診せしめ、習熟せしむ、其講例は、諸書皆原文お用ゆ、解説は一家の註お定めてこれお取り、講師己の所見お説くときは、拠ところの解説了て後、之お及ぼすなり、其人には総理あり、〈学生一切お掌る、儒士井上蘭台などおこれに充てられしことありとぞ、〉都講あり、〈講会のことお日々司る〉教授、〈毎朝句読お授く〉薬園監あり、書記あり、学舎諸生は三等に分てり、〈治学兼備お上等とし、治足りて学不足お中等とし、学足りて治不足お下等とす、〉弁事あり、〈館中一切薬物書籍銭榖の計お掌る、〉童子あり、〈駆役に使ふ〉各其任お守る、其規条は講堂、都講学舎、諸生学舎、食堂、文庫、各其壁に掲示せり、其蔵書は、古今医書より、経史子集に至る迄これお蔵蓄し、総理之お司り、生徒の借覧に備ふ、其祭祀は、春秋二仲お用ゆ、此皆曾祖考の定められし所なり、〈金峨井先生と商量ありしと、墓表に見ゆ、○中略〉講例は旧式に遵ひ、六部書お定とし、先教諭は素問お講じ玉ひ、山田図南、桃井陶庵は傷寒論お講じ、〈図南の門人笠原雲仙、中林俊庵代講す、陶庵は田沼候の医なり、〉目黒道琢は内経難経等〈驪恕公是なり、其門人曾根惟中、西村玄周代講す、〉服部玄広は霊枢〈清水公の医なり〉加藤俊丈は難経、〈市医なり〉田村元雄、太田長元は本草〈曾根昌啓等代講〉小坂元祐、岡田道民は経絡お講ぜり、〈道民は井伊候の医なり〉儒家には金峨先生、吉田篁墩、亀田鳳斎、継で錦城先生皆講あり、大抵百日中一部の書お卒業せり、日々三人宛講授せり、内外の諸生総て二三百人に及べり、皆互に研究して弁難せしとぞ、