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医道二千年眼目編

自序〈○中略〉
余十八の年、今医氏の術に疑あり、二十二三の年、医断お得てこれお読む、〈○中略〉これお藩内の先医に問へども、医たるもの、一たびこれお聞けば、目お張り、唇お反さヾるものなし、余一日趣庭の余、これお先子〈○村井棒寿〉に質、先子諭して曰、小子大ひに疑ふことあらば、又その大ひに疑お以てこれお読むべし、〈○中略〉謹んで其命お奉ず、これ宝暦丁丑〈○七年〉の年なり、我藩〈○熊本〉創て医学お興す、 再春館( ○○○)と雲、大ひに藩内の医人お造る、先子おして医学教授たらしむ、学お受け業に肄ふの徒、凡そ三千有余人、靡然としてその風に郷はざるものなし、盛事と謂はざるべけんや、先子老ひ且つ病あり、その職お辞す、次ひで又世お去る、辛巳余年二十有九、府命お奉じて医館の事お掌る、医生お造るの任たり、此時に当つて、医断の言半は信じ、半は疑ふ、素問九霊の旨も、亦或は取り、或は取らず、諸生の進まざるも、亦余が講ずる所純一ならざればなり、遂にその職お辞す、これよりさき、余年二十又七、書お京師の医官東洋山脇先生に奉じて、真医の道お問ふ、疑の大なるものお決せんと欲してなり、余が書に曰、我が藩有三千医人、而無一人医人也、非無医人也、無真医也、先生又余お賞して、書問往来、明年その高足弟子、永富鳳介お遣して、余が医事お試みしむ、その年先生も亦逝矣、こヽに於ひて、千里独行、笈お負ふて、東の方京師に遊ぶ、讃州友人合田求吾お紹介として、東洞先師に謁お請ふ、先師これお許す、これより日々先師の膝下に拝趣して、初めて古疾医の道お聞くことお得たり、こヽに於ひて、十数年の一大疑城、釈然として氷の日お得て解るが如し、此年方極、類聚方の二書彫印出し売る、余これお請ふて、まさに西に帰んとす、別お先師に告ぐ、先師時に小子椿に諭して曰、我が古疾医の道、亡ぶること業に既に二千年に垂んとす、これ一人二人一代二代の力お以て、これお復すること難し、子もし鎮西に帰らば、翁が言お以て、これお医人に伝へよ、子が知らざる所は、翁已にこれお知る、翁が足らざる所のものあらば、子勉めてこれて補へ、先師涙して余お送る、東洞先師、塾長三好竜輔、及び余が徒、赤星見淳二人、側に在りてこれお聞く、小子椿謹んで先師の命お奉じて、泣ひてその膝下お辞す、これより孜々汲々として、日夜弗解、古疾医の道お、我が藩に唱ふ、藩内靡然として風に郷ふ、〈○中略〉 村井椿識