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難波江
六下
医者剃髪
和事始巻一〈貝原氏著、人倫門、〉薩戒記〈荷田氏家記所繫考にいはく、中山大納言定親卿の薩戒記は、後小松御宇より後花園にいたる、〉に、永享五年九月廿日、法皇御悩危急、医師員能法眼祗候すとあり、是お以てみれば、此時すでに剃髪して僧位にすゝむ事有りしなり、和気雅忠剃髪して武家の医に准ずと和気系図にあり、これによりて考へみるに、昔は武家の医師多くは僧のなせしお、雅忠始めて武家の医に准て剃髪し、僧位に進みければ是医者の僧位にすゝむ始ならん、〈雅忠は、足利家の末世の人ならん、〉続不問談〈篠崎氏著〉医者剃髪、薩戒記にみえたり、此書応仁年中〈応仁は応永の誤なるべし〉の日記也、典薬頭和気某剃髪して准武家医とあり、是は乱世の僧徒は閑暇故医療お業として、終に是に倣て髪お剃る事也、梅窓筆記上、〈梅宮祠官橘氏著〉法師の医の御療治にて勤賞ありし事、後愚昧記〈荷田氏の家記所繁考に、後押小路内大臣公忠公の後愚昧記は、御光厳御宇の事お記す由みえたり、〉永和三年正月二日〈取要〉主上喉疳御悩之時、医道之輩篤直卿、繁成朝臣、典薬頭雖被召之、不能其験、令及難儀給、仍雖為沙汰外者、士仏法師被召之間、以針治、令属御減給了、旧院文和年中、御〓物之時、小松房悲阿弥と号法師参御療治、御平愈了、彼度被行勧賞、被叙法印了、芸苑日渉巻一、〈村瀬氏著〉竹田昌慶者、正慶中剃髪攻医術、慶安中西遊明国、永和四年帰、孫善慶、応永中叙法眼、進法印、又正四位典薬頭和気明重、後剃髪号宗鑑、特旨不歴僧綱、著直綴白袴、和氏之剃髪、蓋始于宗鑑、耳袋〈根岸肥前守著〉後小松院の御宇、半井炉庵事、和朝の医師僧侶官始の由、右は最勝王経天女品に、聊沐浴するの薬剤有之、其比は右の経文比叡山の仏庫に封じあるお、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ勅命ありしに、俗体の者拝見お禁じければ、半井炉庵法体して僧官お給はり、右最勝王経お一覧いたしけるとや、往古はかゝることもありしなり、最勝王経の薬法利益あるものにもあらずとおもふよし、さる老医の物語なりし、
孝雲、貝原氏の引かれたる薩戒記の永享年間よりは、橘氏の引かれたる後愚昧記の永和は、凡四五十年もふるかるべし、源氏物語若菜の上の巻〈湖月抄七十三