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皇国医系
長官〈○中略〉 従三位典薬頭頼豊卿に至り、越前国小森お賜ふ、〈此知名に因て、後年姓お小森と改む、〉又播磨国大幡荘摂津国中条等各これお領す、其裔典薬頭頼季の養子頼庸、六位蔵人に補せられ、元禄十二年卯十二月、始て別家す、今の 錦小路家( ○○○○) の祖是なり、小森家、元錦小路と称す、完文四年五月二日、法皇の院宣に由て、錦小路お改お小森と賜ふ、故に其旧号お以て別家の号とす、小森家は、曩祖阿直王より、当代に至り、一百数代の帝に奉仕す、其家微々たりといへども、今に至て、毎歳首に屠蘇白散お調修して朝廷に呈し、以て歳首の吉瑞お賀す、又正月元日に、天杯天酌の礼ありて、今猶廃せず、家衰へ技拙にして、天下の医生お指揮する事能はずといへども、実に皇国の名家たり、後人或は今の錦小路家お以て、方術の長官とする者あり、甚だ謬れり、錦小路家は、方術に関るの家に非ず、なれども本主の縁あるお以て、補翼救援の遁るべきにも非ざれども、其此事に及ばざるものは、余いまだ其故お知らず、又江都に多紀家なるありて、其本丹家に出で、其家も豪に、其人も勇なりと聞けり、然らば長官の不任おも責むべし、又其任に代るも佳なる可きに、其此に及ばざる、是れまた何の故なる事お知らず、何にしても、方術の治源とも、祖宗とも尊信すべきは、ただ丹家に在り、然るに今小森錦小路、 多紀( ○○) と、各その名お異にし、其家お別にすといへども、其本一なるときは、天下の医級お弁正し、天下の医弊お矯揉するは、二家の免るべきに非らず、凡そ天下の医生たらん者は、長官の試課お経るに非れば、匙お執ることお許さざるお以て常規ともすべきはずの事なるに、近来は長官の不任に因て、医式も医級も頽壊して、試課もまた廃せり、洛医の衰敗も亦察するに足れり、