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奇魂

医薬名義〈井医風変化附本道弁〉
古は方士と定たる者こそ無りけめ、神習の精術は有て、貴も賤も各持病お治ためり、後次々に漢籍の渡来つヽ、大宝の此より令の製りて、典薬寮司に頭、正、博士、師、侍医、助、介、生等おおかれ、薬 鍼、呪禁、按摩等の差、体療、少小、創腫、耳目、口歯等の科ありて、生等の書お読も業お成も、日限年限有て、月毎年毎に、其功お試られ、或は 経学不成就( まなびなしえ子) ども、療術に勝たるは、挙用られ抔しつヽ、諸国も是に准ふ法と成ても、猶医とのみ定めたるは希にて、国守たらん人にも、大臣たらん人にも、其道明なれば任られにき然ばかり漢学はしたれども、大方は法輪の書のみにて薬方の書は未渡ざりしかば、方術は猶此の古のお用られたりと見えたり、奈良宮の此より以来、今の京に至て、盛に漢風に成にたるより、方書も用つヽ、古方と漢方と二派に分れためり、後愈漢様に化行まゝに、古のは漸忘行程に、静ならざる世の打つゞきて、最後には公の方士等も京に住あへずて、国々へ避らるゝ程也ければ、往古よりの古方も漢方も、多くは知られず成にたり、其中に適其庶流の家と称ふる、仲条、吉益、〈古方お用て創、并産術に精し、〉半井、吉田、板坂、〈和気丹波両氏流なめり〉抔ぞ、猶古の遣れるにて、当時までは自一定の療法は有つるお、三喜の東垣丹渓等の法お明より学び帰て、其教お受し人々、公に用られしより、普く其風の世に弘りつゝ、続て書の渡るまに〳〵、古林見宜は、李挺の医学入門、林市之進は薛已の十六種、饗庭東菴は内経、名古屋玄医は傷寒論等に拠りしより、今世の如成果て、古は更也、彼乱世の風さへ亡て、今は又紅毛抔雲国の術さへ行れつゝ、古法は絶むばかりに成来し中に、主とにはあらねど、漢学の医等も、奇方の奇薬のと雲つヽ、さすがに古方は避がたき様に見ゆ、其中に完永の此、円弥と雲僧の古法お以て、万病お治め実暦の頃、三宅意安と聞しは、殊に倭心したたかにて、薬と灸と古法お撰て書に著しき、凡近世に此人に勝りて功しきはあらざりけり、されど其論は更也、其法も漢方相駁りて、未古義お得ざりつれば、あはれ全き皇国風とも雲がたし、天明より文化の間に、武蔵に太田長丸、下総に森川士義と雲人等有て、是も共に古意は得ざりつれども、長丸は雑病お治め、士義は疫お直す事お得てしに、長丸は老て国に死、士義は江戸に在てやや業の成べかりしお、早く死きときけり、惜べし、今世にさる志の人無にはあらねつど、或は一科お得、或は一法お僅かに弁へたるまでにて、全く備らずて、浅き我心はいはで、古方少ければ今人に遍くは及しがたし抔雲、又或は古書の名目お犯したる、偽書等お信用みて止み、或は学業はとまれまくまれ、医術は活物に関る抔、口さかしく雲て、古おたどらんともせず、或は好事者何某の方書など集て、徒に談柄の料にし、或は古学お立て神の方はかしこむ者も、今はの極に至ては、猶漢方こそたのみ処あれ抔雲て、かにかく漢の慕はしく、共に彼の奴となる事お免れず、熟き古義お得る者絶て無りしは、口おしく歎はしきわざなりけり、仰漢の古風も、尚書、周礼、春秋伝、太戴礼、史記、内経等お見るに、薬もあれど、病は多く神に祈り、或は変気移精〈此の禁厭の叙〉などし、或は針灸灌水などにて、万病は治て、少は此の古に協て、漫に薬は飲ざりしお、六国より秦の乱にて、漢の高祖の叔孫通に礼お製させしばかり、厳重き法も絶たる世なりしかば、古医術抔は廃れりと見えて、同じ史記の中ながら、倉公伝よりは後世めきたる事多し、さる程に仲景の薬方お集て、傷寒論お著はししより、痛く療風の変もて行つヽ、唐宋元金明など、世の革るまに〳〵、各自私に理お論ひ、方お定ていよヽます〳〵、拙く成たる也、其は術と雲物は、凡ならぬ人より、凡ならぬ人にあらざれば伝がたく、書は庸人もよめば行はるヽ物故、扁鵲、倉公、華陀等の術は亡て、方書のみ多くなりつヽ、漫に薬のむわざと成たる也、此にても諸術おおきて、仮初の病にも、草根木皮お用つヽ言痛く論ふは、彼にて、さばかり拙く成にたる療風の、漸々に移来たる也けり、然れども猶今京の初つかたまでは、学問わざこそあれ、我医道はさばかり漢風ならざりしお、つぎ〳〵くに彼おのみ主と学びもて行つヽ、今世の如くは成にたり、然し玄つヽ其治術も何も精工成来たらんには、病人も少く固疾も愈べき理なるに、中々に代々おへて、古に劣つヽ、愈益病人の多く、病の愈さるヽのみかは、古無りし病さへ出くるは、いとも〳〵不審しく、怪しき事の極に非や、