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千重之此登辺
和方家
三宅意安 実暦渡の人、和方お好む、延寿和方医鑑二巻、灸焫塩土伝一巻〈医鑑は中世以降諸家の奇行妙方お集録し、塩土伝は俗間に所伝の灸法ち載せたり、〉お著す、
森養竹 元禄の度、採用国伝方三巻お著す、又近世諸家の奇方妙方お載たり、
森川宗円〈○士義〉下総国古河人、本姓島本氏、文化の度和方お以世にしらる、後江戸に来て、本材木町に住し、門人数輩お教養す、
脇田厚斎〈○信親〉 森川に就て和方お学ぶ、〈○後為義子〉備中松山候の侍医たり、師伝お集録して医言霊〈和方一五六方お載す、其中には一二取るべきものあるが如し、板本なれども今甚少し、〉一巻お著す、太田見竜 武蔵州〈羽生領樋遣川村〉人、文化の頃和方二志し、諸州に遊歴して方書お求む、上毛野国新田郡某村にて、一古家の和方書お得て、家に帰て、其書に因て医治おなす、和方家お以て称せらる、其書今神道奇霊伝と名て、其家に伝ふ、惜哉元書のまヽならず、病証お漢語に、薬名お漢名に改めたり、元書は若狭の八百美国の方お伝へて、仮名書なりしとぞ、
石山元司 奥州会津の人、江戸に到て和方医お業とす、仮名大同類聚方と名る所の一小冊お蔵す、書中、おほなぐすり、すくねぐすり二方に、十七法の加減ありて、万病に応ずることなるが、甚稚なきもの也、按るに、或人曰、仮名大同類聚方の名は、後に私したるものにて、元の名は元始書とありきと雲へり、嘉永七年の頃、此人下谷長者町に在し時相見たりしに、年六十有余の老人なりき、 衣関( きぬどめ) 順菴 奥州一関の人、文政度、出雲州に遊、国造千家清主君に謁し、神庫の秘本大同類聚方お得たりと雲て、諸州に賓て自讃し、価お求て之お写しむ、世に出雲本と雲中の一本なり、関東其書多と雲、著書両三部あり、今書名お遺志す、
花野井有年 駿河国府中安西町の人、通称昌斎、初め漢蘭医法に従事し、後和医方に志し、世に称せらる、嘉永中、医方正伝二巻お著す、〈本邦医道の伝来の縁由お弁じたり〉已に刻成と雖、官許お得ずとぞ、