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皇国医事沿革小史
後編第六期
桃園天皇御宇宝暦年中、即紀元二千四百二十年代より、明治維新の際、即紀元二千五百二十七年に至る、〈○中略〉
織田信長耶蘇教の如何なる宗教なるやお知らんと欲し、其教僧、うるがん、ばてれん等お京都に延き、為に四条坊門に一寺お建て、法教お講ぜしむ、之お南蛮寺と号す、〈○註略〉時に永禄十二年なりとす、〈○中略〉爾来、教僧相踵で来航し、盛に法お説き、乃ち衆庶お勧誘して、我門徒となさんと謀り、先づ医術お以て、専ら貧民の疾病お施療し、此恩お売りて、人お懐けんと欲し、更に本国より教徒の医お善くする者、けりこり、やりいす等お招き、又信長に請て、地お近江の息吹山にとし、方五十町の薬園お拓きて、本国より三千種の薬草お移植し、〈今の伊吹艾は其遺種と雲〉南蛮寺中に病室お設け、構法の傍ら、貧民施療に従事し、財お与へ、金お投じ、恩恵の術、百方至らざるはなし、於是信服教お奉ずる者無慮数万人、其徒弟梅庵、告須蒙、寿問等、教僧の伝お受け、構法と医術とお以て、大に宗徒の帰依教法の弘通お謀れり、 之れ実に西洋医術伝来の始なり( ○○○○○○○○○○○○○○) 、○按ずるに、此事南蛮寺与廃記に在り、而して同書は外科の条下に引けり、