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皇国医事沿革小史
後編第六期
宇田川玄随〈名は晋、字は明卿、槐園と号す、〉は江戸の人、津山藩医なり、初め玄沢に就て蘭書お学び、後良沢〈○前野〉の門に入る、性鋭敏、能く事に耐ゆるお以て、其業大に進む、玄随曾て我邦に於て、西洋の医術お唱ふる者、大率外科者流に過ざるお慨ひ、 内科撰要( ○○○○) 十八巻お著はす、津山侯特に其刻費お賜ひ、之お世に公にす、是に至て、世人西洋亦た内科の術あることお知る、〈○中略〉
先是文政六年〈紀元二千四百八十三年〉八月、奥斯太利国の人しいぼると、和蘭医官となりて長崎に来る、医術頗る精妙と称す、当時笈お負ひ西游する者、皆就きて其学術お受く、文政十二年、〈紀元二千四百八十九年〉しいぼると、日本地図刀剣等の雑品お密に購贖して、本国に輸るの故お以て、和蘭に放帰し、再来お禁ぜり、〈後文久の頃再び横浜に来たれり〉然れども蘭医陸続来航して、其跡お絶たざるお以て、爾来医術お学ぶ者は、必ず長崎に遊んで蘭人の伝お受く、