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皇国医事沿革小史
後編第六期
弘化嘉永の際〈紀元二千五百十年代〉に至りて、和蘭学益々隆盛の域に入り、加ふるに英、独、仏等の諸学漸次開闡の途に就けり、〈○中略〉洋医の学精にして術巧なるお喜び、之お信ずるもの少なからず、漸盛の勢あり、彼輩之お嫉み、官医多紀安叔〈楽真院法印〉辻元嵩庵〈為春院法印〉等と相計り、時の執政阿部正弘〈伊勢守〉に強請して、左の禁令お布告し、幕府の医官おして、西洋医術お施す事お禁ぜしめたり、時に嘉永二年〈紀元二千五百八年〉なりとす、
一近来蘭学医師追々相増、世上にても信用いたし候もの多有之哉に相聞候、右者風土も違候事に付、御医師中者、蘭方相用候義御制禁被仰出候旨、得其意堅く可被相守候、但し外科眼科等、外治相用候分は、蘭方参用致候ても不苦候、
己酉三月十五日 阿部伊勢守
一たび此禁令の世に出るや、諸藩亦之に作ふて、和蘭内治の方お禁ぜしお以て、漢医跋扈し洋医家特り其箝制お蒙る、加之ならず、従来医家著訳書の出版は、総て天文方の許可お受くる制なりしも、此年に至り、更に医学館〈多紀氏の創設に係る、漢医講習所なり、委く前編に出す、〉の許お受けしむ、是に於て、洋医家の弊お受くるや益々大なり、嘉永三年〈紀元二千五百九年〉二月、林洞海曩に訳する所のわーとる薬性論の出版お、医学館に請ふて許されず、安政元年、〈紀元二千五百十四年〉仙台の人大槻俊斎、銃創鎖言お著し、亦剞劂の允可お得ず、海防方江川太郎左衛門、今日に在て其急務なるお以て、為に周旋、官の許可お医て刊行せり、既に銃創鎖言お上木せしに因り、洞海始て官許お得て、薬性論お世に公にす、時に安政三年〈紀元二千五百十六年〉なり、当時蘭医の禁、特に外科お許すの故お以て、蘭医漸く頭角お出すお得たり、〈○中略〉
安政四年〈紀元二千五百十七年〉内旨お医官松本良順〈後順と改む、佐藤泰然の長子なり、出で、松本良甫の家お嗣ぐ、〉に伝へ、長崎に遣りて医学お伝習せしむ、同五年将軍家祥病あり、衆医治効なく、病益々劇し、因て正篤等の議お以て、伊藤玄朴、竹内玄同お挙て侍医となし、初て西洋医薬お進めしむ、是お 徳川家西洋内科医法お採用せる始( ○○○○○○○○○○○○○○○)とす、