[p.0829]
時還読我書

森崎保右といへる女子にて産術お業とするもの、先年 鼠咬( ○○) お被り、当時は何事なく、四五十日お経て、蜀椒お喫してより、作発熱し、咬処赤腫し、二月より八月に至り、遍身斑お発し、寒熱往来、遂に羸憊甚しく、一夕手足厥冷、気息綿惙、殆ど絶せんとするに至る、其父玄菴〈医お津田玄仙に学〉〈べり〉既に不治お決し、為方なさ、看者に托して臥たりしが、父子の情たへがたく、屡起て診視せしに、夜明る頃、気猶微続せり、さらばともかふも神に祈らんとて、神前に向ひ、精誠お凝し、拝祈せし時、一婢の猫の床の間へ糞せしお掃除せばやと雲声の耳に入しかば、ふと心付て暫く其儘にせよと命じ、拝畢て丞に本草お撿するに、猫糞の鼠咬お治することあまた載たれば、是なん神授ならんとて、取収お黒焼となし、麝香等分に合せて丸となし、巳の刻より服せしめしに、気息やヽ勢つきて、申の刻許には精神爽亮なるに至る、続て日ならず快復お得たり、此事奇に似たりといへども、其理なしと雲ふべからず、且渠父子共に質直なる人物にて、虚誕など構べきものならねば、其言また信とするに足れり、