[p.0836][p.0837]
蘭学事始

又古来、 かすぱる流( ○○○○○) といふ外科有り、これは完永二十年、南部山田浦へ漂流ありし阿蘭陀船の人数の内、江戸へ召呼れたる中、かすぱる某といふ外科あり、三四年留置れ、其療法お学せられし者もありしが、追々長崎へ御送りのよし、江戸並に長崎にても、正保の頃、此かすぱるより伝来の療方ありしお、詳なる事お知らずとも、後にかすぱる流と唱ふる事と申す事にや、又別にかすぱる姓の外科、渡来の事もありしか、此他長崎にて、 吉雄流( ○○○) など雲へるは、其後渡来の蘭人より伝へ得たる療方も有て、吉雄流とも申せり、其諸家の伝書といふ者共お見るに、皆膏薬油薬の法のみにて、委しき事なし、斯の如き類にて、備らざる事のみなれども、其業は漢土の外科には大に勝り、又本邦の古へより伝りたる外治には大に勝れりといふべき歟、其中に、翁が見たる楢林家の金瘡の書と雲ふものあり、其中に人身中にせいめんといへるものあり、これは生命にあづかる大切のものなりと記せり、今お以て見れば、是れせーにゆーにして、神経と義訳せしものと思はる、わづかながら、これ程の事お聞書せしは、此書お始とすべし、〈○下略〉