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蘭学事始

一又 栗崎流( ○○○) といへるは、南蛮人の種子なりと、これは南蛮邪宗の徒、厳禁となり、其船の渡海も御禁制となりたれども、以前は平戸長崎の地に、彼人々雑居し、妻お持ち子も有りしが、後々これおも吟味有て、蛮人の種子の分は、残らず此地お放流せられしが、其中栗崎氏にて名はどうと雲ふものは、彼地に成長しても、其宗には入らず、其国の医事お学びしが、邪宗に入らざる訳お以て、帰朝お許され、召帰され長崎へ帰りし後、其術お以て、大に行れ、至て上手なりしが、人々栗崎流と称せしよし、名のどうと雲るは、蛮語露の事なるよし、後に文字お塡めて道有と認めしとぞ、今の官医栗崎君の祖なるや、又別家の栗崎なるや、詳なる事は知らざるなり、 吉田流楢林流( ○○○○○○)など雲るは、阿蘭陀通詞にて、彼方法お学び、一門戸お開きしなり、〈○下略〉