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蘭学事始

一 桂川家( ○○○) の事は、今の代より五世の祖甫筑先生と申せしは、文廟〈○徳川家宣〉未だ藩邸におはせし時、召出されし御外科なり、其師家は、平戸侯〈○松浦〉の医師にて嵐山甫安と申たるよしなり、此甫安は、其侯より出島在館の阿蘭外科に御託し置れて、親しく学ばせ給ひしとなり、此御家は、平戸へ入津以来、彼国の事は、訳品有て御親しみ御自由なる事のよし、又其時代は今の如くにもなかりしにや、甫筑君其頃幼若にて、門人となり、師に附添て、出島へ時々参られしが、専ら嵐山の流法お伝へ給ひしとなり、阿蘭陀の外科は、だんねると、あるまんすといふ人ときけり、桂川もとは、大和の国の人にて、森島氏なりしが、嵐山の流お汲むといふ意にて、家名お桂川と改め給ふとなり、今の桂川君の御祖父甫三と申せしは、翁若かりし時、常に交厚かりし御人なりし故、此事語り給へるお、聞置き侍りぬ、これお世に桂川流と称しぬる事なり、