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蘭学事始

明和四五年の間なるべし、一とせ甲必丹は、やんからんす、外科はばぶるといふもの来りし事あり、此からんすは、博学の人ばぶるは外科巧者のよしなり、大通詞 吉雄幸左衛門( ○○○○○○) は、専ら此ばぶるお師としたりと、幸左衛門〈後幸作、号は耕牛と雲り、〉外科に巧みなりとて、其名高く、西国中国筋の人、長崎へ下り、其門に入る者至て多し、此年も蘭人に附添来れり、翁〈○杉田玄白〉夫等の事お伝へ聞しゆへ、直に幸左衛門が門に入り、其術お学べり、これによりて日々彼客屋へ通ひたり、一日右のばぶる川原元伯といへる医生の、舌疽お診ひて治療し、且刺絡の術お施せしお見たり、扠々手に入りたるものなりき、血の飛び出す程お預め考へ、之お受るの器お、余程に引はなし置たるに、飛奔血てうど其内に入りたりき、是れ 江戸にて刺絡せしの始( ○○○○○○○○○○) なり、其頃、翁年若く、元気は強し、滞留中は、怠慢なく客館へ往来せしに、幸左衛門、一珍書お出し示せり、これは去年初て持渡りし、へーすてる〈人名〉のしゆるぜいん〈外科治術〉といふ書なりと、我深く懇望して、境樽二十挺お以て、交易したりと語れり、