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按腹図解

我医道も、又唐士より伝へしにこそ、しかれば導引按矯の術も、同じく伝来しにや有ん、又は皇国にて発明せし人有しにもやあらん、三栗の中昔の頃、其術の世に行れし証は、栄花の物語に、 腹とりの女( ○○○○○) といふこと見えたり、されど此物語も、七百歳余、往古の事なれば、其技は、伊香保の沼のいかなりしや知るべからず、又彼邦にも、最上代には、専ら行れしよしは、医籍の親と崇る、内経といふ書に見えたり、されど彼処にも、いつしか癈れしとしられて、後世の医籍には、絶て見えず、然るに我大御国よ、王匣二百年よりこなた、誠に安国の安穏に、科戸の風の荒振、綿津見の波の騒動も絶果て、治たまひ福給へる御世の御陰に隠れて、天下の蒼生、尊も卑も、甚静なる世お楽しむ、此御時お得て、万の癈たるが興ざるもなく、千々の絶たるが継れぬも将あらざめる程に、我医道も又しかなり、是に因て、其道に精しき書も、技に委しき人も、其名聞ゆる野辺の蔓、林の木葉と世に乏しからず、誠に此道全備と謂べし、さるお橿実の独此導引按矯の術のみ、古衣うち捨て真木柱誰取立る人も無りしに、葦垣の近き年頃、内日指都の医士、香河氏、賀川氏の二人、世に勝れて、我医道お、石上古きに復せり、其医論の余波、此術に及せり、故世人、此二子お以て、此術再興祖と思へり、されど其著書おみれば、香河氏は 療病の末助( ○○○○○) とし、賀川氏は 養妊之本務( ○○○○○) とす、その旨意甚齟齬る而巳ならず、共に岩淵の深理お極得しにあらねば、其末流お汲徒おや、又空蝉の世に、此技お業とする人、多くは盲人、寡婦、或は流落家、貧学医生輩、此技お以て、糊口の資とするに過ず、是に因て、此術おするお、倭文手纏甚卑しめり、さる故、識見人は、此術おしも、恥且悪む事にはなりにたり、